3月21日

小泉今日子「私の16才」でデビュー! 芸能界入りした “最初の1年” の真実

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小泉今日子のデビューシングル「私の16才」がリリースされた日
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小泉今日子の、デビューから “最初の1年” を振り返る


本日(2月18日)から小泉今日子のデビュー40周年ツアー『小泉今日子TOUR 2022 KKPP(Kyoko Koizumi Pop Party)』(12都市15公演)がスタートする。

実に31年ぶりの全国ホールツアー。そして何よりも、あのキョンキョンがデビュー40周年を迎えたことに深い感慨を覚える。なにせ筆者は彼女と同学年。アイドル歌手として世に出てから、俳優、作詞家、書評家、エッセイスト、プロデューサー… と、軽やかにフィールドを広げてきた姿を目の当たりにしてきたからだ。

今回、光栄なことに特集のトップバッターにご指名いただいたので、コイズミ伝説の序章といえる “最初の1年” を振り返ることにする。のちに時代の寵児となった彼女のこと、その軌跡は各方面で語り尽くされた感もあるが、“最初の1年” は意外と流されがち。触れても「聖子ちゃんカットで70年代風の歌謡曲を歌う、凡百のアイドルの1人」で「2年目にショートカットにするまではあまり目立たなかった」という文脈がほとんどなので、本当にそうだったのか、歴史が修正されていないか、当時の資料やデータをもとに検証したい。

『スター誕生!』に合格、石野真子の地盤を引き継ぐ


1966年2月4日、神奈川県の厚木市で生まれた小泉は1981年1月16日(放送は2月1日)、オーディション番組『スター誕生!』(日本テレビ系)のテレビ予選に出演。石野真子の「彼が初恋」を歌って合格し、第35回決戦大会(収録:3月11日 / 放送:22日)で3社のスカウトを受け、バーニングプロダクションとビクター音楽産業(現JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)の所属となる。

奇しくも同時期、同じ事務所でレコード会社の先輩にもあたる石野真子が結婚による引退を表明。石野プロジェクトのスタッフがそのまま小泉の担当にスライドし、熱い応援で知られた石野の親衛隊も小泉へと引き継がれた。

『スタ誕』出場時の小泉を見逃した筆者が初めて「小泉今日子」を認識したのは『オリコンウィークリー』1982年正月号(発売は前年12月26日)に掲載されたビクターのモノクロ広告。当時すでにベストテン入りしていた松本伊代と同格の扱いで、

3月21日「私の16才」でデビュー決定!

… と書かれている。キャッチフレーズ「微笑少女(びしょうじょ)」も添えられていたが、本人の写真はなく、ビジュアルは漫画家・大山和栄によるイラストのみであった。

デビュー3ヶ月前からの告知広告。さらに1月29日号(1月23日発売)には、やはりイラストのみだが、カラー1/2頁の広告が表4(最終面)に掲載されたため、「ずいぶん力の入っている新人だな」と思った記憶がある。その頃 “ティーザー広告”(商品の断片的な情報だけを先に公開し、消費者の興味を引くことを意図した広告手法)という言葉は知らなかったが、早い段階からプロモーションを展開し、他の新人との差別化を図ろうという売り出す側の熱意は、高1だった筆者にも十分すぎるほど伝わってきた。

ネットも動画サイトもなかった時代、『オリコン~』は貴重な音楽情報源だったため、筆者は毎週熟読していたが、同誌掲載の広告に小泉の写真が登場したのは3月12日号(発売は3月6日)。同広告には、3月7日放送の『スタ誕』デビューコーナーに出演するという情報も記載されているので、テレビ露出が始まる時期に合わせて、本人のビジュアルを解禁したのだろう。

小泉今日子、デビュー曲は「私の16才」


緻密な露出計画を踏まえて、デビュー曲「私の16才」が発売されたのは3月21日。同曲が森まどか「ねえ・ねえ・ねえ」(1979年)のカバーであることは今でこそ周知の事実だが、当時、その点に言及した一般メディアは皆無に等しく、一部好事家が知るのみであった。

筆者は初代ディレクターの髙橋隆氏に何度か取材をしてきたが、石野真子も担当していた髙橋氏はコンサートにおける若い男性ファンのノリを見て、女性アイドルには彼らが踊れる曲が必要だと痛感したという。その経験から、欧米のダンスミュージックで多用されていた “バスドラ4つ打ち” のサウンドをアイドルポップスに導入するようになる。

森まどかの担当でもあった髙橋氏はボニーMのディスコチューン「怪僧ラスプーチン」(1978年)に着想を得て「ねえ・ねえ・ねえ」を制作。デビュー曲の方向性を確認するため、見本として同曲をバーニングの周防郁雄社長に聴いてもらったところ「これでいこう。ただし、タイトルはこっちで考える」と言われたという。

余談になるが、筆者はいわゆる82年組(昭和の頃は「57年組」とも言われていた)には、2つの呪縛があったと考えている。1つは「聖子ちゃんカット」、もう1つは「年齢アピール」だ。前者はもちろん松田聖子、後者は1981年10月に「センチメンタル・ジャーニー」で一足早くデビューした松本伊代がオリジネーター。ともに成功例として、模倣されたわけだ。

ちょっとしたブーム? アピールポイントは自分の年齢


当時の女性アイドルがこぞって聖子ちゃんカットにしていたことは散々指摘されてきたことだが、新人が名刺代わりに自分の年齢を訴求することもちょっとしたブームであった。それだけ「伊代はまだ16だから」のインパクトが大きかったのだろう。以下、思いつくままに該当例を列挙する。

■ ミスター不思議 / 川島恵(2月21日):恋をした十六は不思議のとりこ
■ 潮風の少女 / 堀ちえみ(3月21日):15になったばかり 私が揺れてる
■ 駈けてきた処女 / 三田寛子(3月21日):16だから恋はじめ
■ 秘密のオルゴール / 川田あつ子(4月21日):Sixteen Sixteen Bossa Nova
■ NAI・NAI 16 / シブがき隊 (5月5日):タイトルのみ
■ 恋と涙の17才 / つちやかおり(6月21日):今度が初めての17の夏なの
■ 少女A / 中森明菜(7月28日):いわゆる普通の17歳だわ

小泉の場合、事務所内で「今日子は今16だから、タイトルは「私の16才」でいいんじゃないか」と、割と簡単に決まったそうだが、それも若さや鮮度を手っ取り早く年齢でアピールする当時のムーヴメントが背景にあってこそ。アイドルとしては年長にあたる18歳でデビューした北原佐和子、渡辺めぐみ、三井比佐子らが該当しないのは、そこでは勝負しない(できない)という判断もあったのではと思われる。

デビューから2作続けてカバー曲… のワケ


それはともかく、「私の16才」はオリコンで週間22位、人気番組『ザ・ベストテン』(TBS系)では注目曲コーナー「スポットライト」への出演(5月6日)を経て15位まで上昇。デビュー曲としてはまずまずの結果を残す。勢いに乗った小泉陣営はセカンドシングルとして「素敵なラブリーボーイ」を7月5日にリリース。同曲は1975年にヒットした林寛子の曲のカバーだったが、オリコン19位をマークし、最高位でもセールス枚数でもオリジナルを上回った。

近年は「デビューから2作続けてカバー曲だなんて、実はあまり期待されていなかったのではないか」という見方が一部であるようだが、それは全くの見当外れ。髙橋氏いわく、このときは事務所からの指定でシングルにしたそうだが、バーニングはもともとカバーを積極的に採用する事務所なのである。

そのことは小泉の先輩にあたる郷ひろみ(「セクシー・ユー」「哀愁のカサブランカ」等)、高田みづえ(「私はピアノ」「真夜中のギター」等)、石野真子(「彼が初恋」「恋のハッピー・デート」)らがカバー曲をシングルとしてリリースし、ヒットに結びつけている事実からも明らか。小泉に関しては前述の通り、デビュー前から大掛かりなプロモーションが展開されており、ビクターにとっても松本伊代と並ぶイチオシのアイドルであったことは疑いようがなかった。

小泉今日子、“最初の1年”の実績


ここで “最初の1年” でリリースされた作品と各種ランキングの実績を見てみよう。

■シングル
1982年3月21日「私の16才」(オ22位 / ベ15位 / ト16位 / 全17位)9.7万枚
1982年7月5日「素敵なラブリーボーイ」(オ19位 / ベ17位 / ト18位 / 全13位)12.4万枚
1982年9月21日「ひとり街角」(オ13位 / ベ10位 / ト10位 / 全9位)15.4万枚
1983年2月5日「春風の誘惑」(オ10位 / ベ11位 / ト9位 / 全8位)14.1万枚

※オ=オリコン、ベ=TBS系『ザ・ベストテン』、ト=日本テレビ系『ザ・トップテン』、全=文化放送『決定!全日本歌謡選抜』
参考
1983年5月5日「まっ赤な女の子」(オ8位 / ベ7位 / ト8位 / 全6位)22.7万枚


■アルバム
1982年8月21日『マイ・ファンタジー』(LP2位 / カセット7位)20.9万枚
1982年12月16日『詩色の季節』(LP2位 / カセット8位)17.8万枚
参考
1983年7月5日『Breezing』(LP2位 / カセット6位)18万枚


どうだろう。世間では「1年目のキョンキョンは目立たない存在だった」とか「同期に埋もれて伸び悩んでいた」といった通説が語られているが、事実は必ずしもそうではなかったことがお分かりいただけるのではないか。

シングルはリリースするたびに最高位を更新。アルバムに至ってはファーストから破格のセールスを記録している。LPとカセットのトータル売り上げで20万枚を突破したオリジナルアルバムを持つ女性アイドルは、この時点で天地真理、山口百恵、岩崎宏美、松田聖子、伊藤つかさ、中森明菜の6組のみ。参考までに、ほかの82年組のファーストアルバムのセールスを見てみよう。

■ センチメンタルI・Y・O / 松本伊代(1981年12月 / LP8位 / カセット11位)18.7万枚
■ 少女 / 堀ちえみ(1982年5月 / LP9位 / カセット18位)11.4万枚
■ AND I LOVE YOU / 早見優(1982年6月 / LP23位 / カセット27位)4.5万枚
■ プロローグ〈序幕〉 / 中森明菜(1982年7月 / LP5位 / カセット7位)45.3万枚
■ 妖精 / 石川秀美(1982年9月 / LP13位 / カセット28位)6万枚

小泉の『マイ・ファンタジー』は、デビュー曲「センチメンタル・ジャーニー」が大ヒットした松本伊代のファーストアルバムのセールスを凌駕。この時点で大きなヒットシングルがなかったことを考慮すると驚異的な売り上げといえる。学生の小遣いでは気軽に買えないアルバムが “最初の1年” から売れていたのは、タレントとしての人気が先行していた証。それは月刊誌『明星』で行われていた人気投票の結果からも窺える。

■『明星』オールスター人気投票(1982年10月号)
1位:松田聖子(106,448票)
2位:河合奈保子(101,645票)
3位:薬師丸ひろ子(39,239票)
4位:堀ちえみ(28,640票)
5位:小泉今日子(20,902票)

参考(1983年10月号)
1位:松田聖子(82,434票)
2位:中森明菜(60,482票)
3位:堀ちえみ(27,160票)
4位:小泉今日子(25,532票)
5位:河合奈保子(21,998票)


曲調がガラリと変わった「まっ赤な女の子」のイメージが鮮烈だったこと、同曲がシングルとして初めて20万枚を突破したことから「キョンキョンのブレークポイント」とされているが、人気面では “最初の1年” から高値安定。決して地味でも、目立たない存在でもなかった。実際、筆者の周囲では、やや不良がかった連中を中心にキョンキョンのファンが多く、途中から明菜が急伸、あとは横一線だった印象がある。極めて限定的なサンプル数ではあるが…。

デビュー2年目の小泉今日子、ショートカットに変身した狙いとは?


その人気を背景に、右肩上がりにシングルのセールスを伸ばした小泉は、デビュー2年目に聖子ちゃんカットからショートヘアに変身。この件も一部で「事務所に無断で、自分の意思で髪を切った」とか「「まっ赤な女の子」のときにショートにした」といった話がまことしやかに流れているが、事実は異なる。髪を切ったのは事務所から許可が出たからであり(とはいえ、あまりの短さに社長が驚愕したというオチがある)、タイミングも4thシングル「春風の誘惑」のリリース時(1983年2月)であった。ストーリーとしては「曲調の変化に合わせて、大人たちに無断で切った」という方が面白いので、それが定着しているのだろう。

ともすれば、スルーされがちな “最初の1年” であるが、その後の飛躍のためには欠かせない時期だったと筆者は捉えている。特にアイドルで重要なのは「飽きられないこと」。そのためには常に変化し、成長していかなくてはならない。聖子ちゃんカットで奥ゆかしい乙女心を歌う、従来型アイドルの路線は本人のキャラクターとは異なるものだったが、その期間があったからこそ、ショートヘアで弾けたポップスを歌う、“2年目の姿” が新鮮に映った。その間に彼女は「演じ切ることの重要性」と「変身する楽しさ」を学んだはずだ。

「変身」は意外性があったり、落差が大きかったりした方がオーディエンスは喜ぶ。その好例がオードリー・ヘプバーンだ。『麗しのサブリナ』(1954年)や『マイ・フェア・レディ』(1964年)など、出演作の多くで華麗な変身を披露してきた銀幕の妖精は、没後29年を経た今も世界中で愛されている。小泉が40年間、一線を走り続けてこられたのも、ファッションや髪型といったビジュアル面の変化だけでなく、時代ごとにフィールドを広げ、それこそ「ヤマトナデシコ七変化」のごとく、様々な才能を発揮し、内面的な成長も果たしてきたからにほかならない。

デビュー以来、本音で語ってきた小泉今日子


筆者は昨年、小泉にロングインタビューを行う機会に恵まれたが、その前に過去の発言を総ざらいして気づいたことがある。デビュー以来、言っていることがほとんど変わっていないのだ。

従来型アイドルを演じ、芸能界を様子見していた “最初の1年” でさえ、物怖じせずに本音で語っていることが伝わってくる。好き嫌いがはっきりしていて、媚びを売らない。言葉の端々から気の強さが窺えるのも最初からだ。おそらく本質は変わっていないのだろう。

取材では「プロデューサーとして60歳までに代表作と言えるものを作って、65歳になったらグレて遊びたい!」と語っていたキョンキョン。これからも目が離せない存在であり続けるに違いない。

40周年☆小泉今日子!

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2022.02.18
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濱口英樹
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