編集されたシルクロードの記憶…
俗に、“記憶は編集される” という。
こんな話がある。ある日、中学生のA子さんが、何の気なしに幼稚園時代の写真を整理していたら、どんなに探しても幼馴染みのBちゃんと一緒に写っている写真が見当たらないことに気付いたという。母親に聞くと、Bちゃんなど知らないという。そんなはずはない。幼稚園の一番の親友で、Bちゃんはいじめられっ子だったけど、自分は優しく接してあげて、遠足でも一緒にお弁当を食べて…… ほら、Bちゃんよくウチに遊びにきて、2人でよくお絵かきしたじゃない――。
だが、真相は違った。幼稚園時代、いじめられていたのはA子さんだった。彼女は遠足でいつもひとりぼっちだった。園から帰ると、いつも一人でお絵かきばかりしていた。
A子さんを診察した精神科医は、こう母親に説明したという。
「なに、よくある記憶の編集です。A子さんは幼稚園時代のツラい記憶を、いつしか架空のいじめられっ子の親友・Bちゃんを作り出すことで克服したんです。彼女自身も気付かないうちに――。ま、幼少期にはしばしば見られる現象なので、気にすることはないでしょう」
シルクロードブームのきっかけは「NHK特集」じゃない!
そう、記憶は編集される――。
そう言えば僕も、長い間、『NHK特集 シルクロード 絲綢之路』という番組が、70年代後半のエンタメ界における、あの “シルクロードブーム” を生み出したとばかり思っていた。ほら、あの時代、やたら地中海や西アジア、インド、モンゴル、中国など、シルクロードを連想させる音楽やテレビ番組が頻発したでしょ。例えば――
■ 1978年4月1日:庄野真代「飛んでイスタンブール」リリース
■ 1978年10月1日:日本テレビ系ドラマ『西遊記』放送開始
■ 同日 ゴダイゴ「ガンダーラ」リリース
■ 1978年11月25日:イエロー・マジック・オーケストラが同名アルバムでデビュー
■ 1979年1月13日:トルコ軍楽の「ジェッディン・デデン」をテーマ曲とする NHK ドラマ『阿修羅のごとく』放送開始
■ 1979年2月25日:ジュディ・オング「魅せられて」リリース
■ 1979年3月9日:ピンク・レディー「ジパング」リリース
■ 1979年4月7日:NHK アニメ『マルコ・ポーロの冒険』放送開始
■ 1979年4月21日:池田満寿夫原作・監督の映画『エーゲ海に捧ぐ』公開
■ 1979年8月6日:西ドイツのグループ・ジンギスカンの歌う同名タイトル曲がヒット(オリコン洋楽チャート1位)
■ 1979年10月1日:久保田早紀「異邦人 -シルクロードのテーマ-」リリース
――という具合。わずか2年の間に、シルクロードにまつわる音楽や番組が、きら星のごとく輩出されたのがお分かりいただけると思う。
ところが、である。件の NHK特集『シルクロード』の放送が始まったのは、1980年4月7日。同番組の登場は、むしろブームのしんがりだったのである。
そう、記憶は編集される――。
ここで、改めて問い直したい。あの一連の「シルクロードブーム」とは何だったのか。何がキッカケで始まり、いかにして拡散したのか。
エキゾチック歌謡「魅せられて」を歌うジュディ・オング
ちなみに、今日2月25日は、この一連のブームの代表曲の1つ―― ジュディ・オングの「魅せられて」が41年前にリリースされた日に当たる。
南に向いてる窓をあけ
ひとりで見ている海の色
美しすぎると怖くなる
若さによく似た真昼の蜃気楼
当時、ジュディ・オングは29歳。台湾出身の彼女の家族は、祖国では有名なエリート一家。祖父は辛亥革命の歴史的人物で、父親は台湾の国営ラジオ局の要職にあり、戦後、アメリカ GHQ の仕事で来日した。ジュディ・オング3歳の時である。
小学校は台湾系の東京中華学校に通い、この時、英語の家庭教師に “ジュディ” という英語名をつけてもらったのが、後の芸名になった。芸能界入りは早く、9歳で劇団ひまわりに入団すると、11歳で日米合作映画に抜擢されて女優デビュー、16歳で日本コロムビアから歌手デビューを果たした。
十代の彼女は、そのエキゾチックな顔立ちも手伝い、アイドル的な人気を博した。ドラマや歌ばかりでなく、伝説的バラエティ番組『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』にもレギュラー出演し、コメディエンヌの才を開花させた。
CBSソニーのプロデュ—サー、酒井政利の仕掛け
最初の転機は1972年だった。この年、日本の田中角栄首相と中華人民共和国の周恩来首相が握手して、日中国交正常化が実現。これを機に、ジュディは日本に帰化する。政治的な色付けをされるのを嫌ったのかもしれない。
第二の転機は翌73年。CBSソニーへ移籍し、あの酒井政利プロデューサーと出会う。これが、後の「魅せられて」への布石となる。
そう、酒井政利プロデューサー。南沙織を始め、キャンディーズや山口百恵を育てた音楽界のレジェンドだ。14歳の山口百恵に「♪ あなたが望むなら 私何をされてもいいわ」と “性典ソング” を歌わせたり、キャンディーズのラストシングル「微笑がえし」の作詞を阿木燿子サンに依頼して、それまでのシングルのタイトルを散りばめたり―― 何かと仕掛けが好きな人だった。山口百恵の「プレイバック Part2」に “無音” のパートを入れたのも、彼のアイデアである。
そして、件の「魅せられて」も、酒井サンの仕掛けだった。リリースからさかのぼること1年半前―― 1977年夏。かつて国鉄の「ディスカバー・ジャパン」を仕掛けた電通の藤岡和賀夫プロデューサーの発案で、各界で活躍するクリエイターたちを集めて「南太平洋裸足の旅」が催された。
風変わりな電通の企画、クリエイター8人を集めた「南太平洋裸足の旅」
それは、こんな風変わりな企画だった。77年8月18日から15日間、クリエイター8人を集めて、南太平洋のサモアに旅をする。8人とは―― 作詞家の阿久悠、カメラマンの浅井慎平、画家の池田満寿夫、横尾忠則、音楽プロデューサーの酒井政利、評論家の平岡正明、京大教授の多田道太郎、そして――イベントプロデューサーの小谷正一である。
分野もバラバラな8人を集めて、何をするのか。発起人の藤岡サンはあるインタビューに、こう答えている。
「なんというか、文明社会の閉塞状況の中で、ふとノンビリしたところへ行きたい、という衝動は誰にでもあるでしょう。それを実行しただけですよ。8人は、私が極めて恣意的に選びました」
もちろん、額面通りにこの言葉を受け取ることはできない。この旅にはスポンサーが付いており、それは資生堂とワコールだった。8人はサモアに着くと、一人一人引き離され、各々現地の家々に泊まった。そこで数日間を過ごし、定期的に一堂に会して、自由に感想を語り合うよう言い渡された。そして、藤岡サンはその全てを記録した―― そう、それが旅の狙いだった。
要するに、これは、スポンサー2社の新しいキャンペーンのためのブレーンストーミングの旅だった。もちろん、8人にその意識はない。だが、藤岡サンは外部からの情報を一切遮断することで、人間本来の感情や思いを彼らから引き出そうと考えたのだ。
旅の成果は「時間よ止まれ」、そして「エーゲ海のテーマ 魅せられて」
旅から7ヶ月後、早速、その成果が出た。矢沢永吉の「時間よ止まれ」である。歌い出しのフレーズ「♪ 罪なやつさ Ah PACIFIC」から分かる通り、それは南太平洋裸足の旅からヒントを得たものだった。情報過多の時代だからこそ、より人間らしくあるために能動的に時間を止める―― 8人の誰かの言葉をヒントに資生堂のディレクターがコンセプトを考え、酒井サンのところへ依頼が来た。
そして、続く旅の成果第2弾が、79年初頭にリリースされた「魅せられて」だった。作詞:阿木燿子、作曲:筒美京平、プロデュース:酒井政利。ワコールの CMソングで、CM 内の映像は、池田満寿夫監督の映画『エーゲ海に捧ぐ』の1シーンが使われた。
Wind is blowing from the Aegea
女は海
好きな男の腕の中でも
違う男の夢を見る
歌詞の「the Aegea」とは、エーゲ海のことである。ただ、発音は “エージア” と聴こえ、“アジア” を連想させる。歌っているのがジュディだから、余計にそう感じる。実際、ヨーロッパから見て東方に位置するエーゲ海は、長く “アジアの内海” と見られていた歴史があり、語源もその名残とされる。それゆえ、シルクロードの重要な拠点の1つでもある。
シルクロードブームの発端の1つ、池田満寿夫「エーゲ海に捧ぐ」
段々と核心に近づいてきた。
映画『エーゲ海に捧ぐ』の原作は、1977年に芥川賞を受賞した池田満寿夫サンの同名小説である。多彩に活躍する芸術家の快挙ということもあり、当時、大きな社会現象になった。
そう―― 翌78年から79年にかけて、日本のエンタメ界を席巻するシルクロードブームの発端の1つは、間違いなくこの小説にあった。ならば、池田満寿夫サンがブームの発案者?
いや、池田サン自身は、実は受賞に至るまで一度もエーゲ海を訪れたことはなかったという。その小説のアイデア自体は、角川書店の『野性時代』の渡辺寛編集長から提供されたものだった。
1977年と言えば、同社の角川春樹氏が父・源義氏の死去に伴い、社長に就いて3年目。前年に角川映画第一作『犬神家の一族』を成功させ、業界の風雲児として注目を浴び始めた頃である。もしかしたら、“エーゲ海” のアイデアの発案者は、春樹社長だったのかもしれない。
いや―― だとしたら、角川は自社から輩出した、この芥川賞作品を映画化していないとおかしい。うーん……。
(石坂浩二サンのナレーションの口調で)
シルクロードの源流を辿る道は、深く、険しい。
※ 指南役の連載「黄金の6年間」
1978年から1983年までの「東京が最も面白く、猥雑で、エキサイティングだった時代」に光を当て、個々の事例を掘り下げつつ、その理由を紐解いていく大好評シリーズ。
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etc…
2020.02.25