5月1日

中森明菜の初代ディレクター島田雄三が語る!方向性を決定づけた “薬師丸ひろ子” の存在

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連載【ザ・プロデューサーズ】vol.3
島田雄三 / 中森明菜

中森明菜のデビューからファーストブレイクまで


新しいスターが生まれる時、そのバックステージにはドラマがある。

これは、エンタメ界において、稀代の新人を数多く輩出した「黄金の6年間」(1978〜83年)を舞台裏から支えた、時代の証言者たちの物語である。そう、プロデューサーズ―― 彼らの軌跡を辿ることは、決して昔話ではない。今や音楽は “サブスク” なる新たなステージへと移行し、人々はあらゆる時代の音楽に等距離でアクセスできるようになった。温故知新――この物語は、今を生きる音楽人たちにとって、時に未来への地図となる。

『プロデューサーズ』第3回は、80年代を代表するディーバ、中森明菜さんをプロデュースした、ワーナー・パイオニア(当時 / 現:ワーナーミュージック・ジャパン)の島田雄三さんである。稀代の歌姫は80年代をトップスピードで駆け抜け、デビューから40年以上を経た今なお、その伝説が色あせることはない。彼女の舞台裏を語るのに、デビュー曲「スローモーション」から、初のレコード大賞曲「ミ・アモーレ」までをプロデュースした島田さんをおいて他にない。今回は、デビューからファーストブレイクに至る〈前編〉をお届けする。

なお、本記事はSpotifyのポッドキャストで独占配信された「Re:mind 80’s - 黄金の6年間 1978-1983」を編集したものである(聞き手:太田秀樹、彩、さにー、かなえ氏 / 構成:指南役)

明菜のデビュー40周年がヒートアップ


―― 今年(注:インタビューが行われたのは2022年11月)の4月末、NHKのBSで放送された『伝説のコンサート〜中森明菜』(1989年4月、よみうりランドEASTで行われた野外コンサート。それまでの全シングルを歌った)が凄い反響でした。

おかげさまで、明菜のデビュー40周年を色々なところで取り上げていただいて、ヒートアップしている感じがします。まさか、こんなに長く人気が続くなんて、僕が携わっていた時は考えもしなかった。当時は1作1作、目の前の仕事を一生懸命やるのに夢中で…。

―― 島田さんの中でも、ここ最近の盛り上がりは特別。

もちろん、世間が盛り上がっていただくのは嬉しい。ただ、僕の中ではデビューしたころからずっと切れ目なく繋がってる印象なので…。オーバーな言い方をしちゃうと、どこかで自分の娘だったりする感覚もある。だから、どれだけ年月が経とうが、彼女に何があろうが、変わらず、いつも気になる存在です。

―― 今、若い人たちの間で80年代や90年代がブームです。彼らは、中森明菜さんの “本物” 的な部分に惹かれると聞きます。

本当にそれはもう、自分が望んでいた以上の反応で、嬉しいですね。多分、デビュー当初から意識して “アイドル” という枠に収めようとしなかったことが、その後、ターゲットも音楽も広がって、今に至るまで色々な世代の方々から反応をいただいているんだと思います。

―― アーティスト。

当時、シングルが50万、60万売れて、かつアルバムも同じくらい売れるアイドルって、明菜以外に、同時代では松田聖子さんくらいしかいなかったんです。その意味で、おふたりとも、より大きなマーケット… アーティストとして幅広く、時代を超えて愛されているんだと思います。

よりによって喋らない子を獲っちゃったなぁ




―― 明菜さんと初めて会った時の話を聞かせてください。

ご存知のように、彼女は1981年12月放送(収録は11月)の『スター誕生!』(日本テレビ系)の決選大会で、僕らワーナー・パイオニアを含む11社からプラカードが上がりました。その後、日本テレビの仕切りでプロダクションは研音、レコード会社はワーナーと決まるんですが、最初、顔合わせで本人と話した時は、とにかく喋らない子でしたね。僕が質問したことにハキハキと答えてくれるタイプじゃない。何を聴いても、一拍置いて答えが来る。そのうち、隣にいたお母さんが全部、代わりに答えてくるようになって…。なので僕は「…しくったなぁ」と(笑)

――(笑)

あんなに喋らない子とは思わなかった。いえ、可愛い子だとは思いましたよ。歌も上手い子だと思いました。オーラもある。でも、よりによって喋らない子を獲っちゃったなぁって、あの時は頭抱えましたね(笑)

―― ワーナーが獲得できた経緯は?

これは、番組のチーフプロデューサーの “イケブンさん” こと、池田文雄さんっていう、日テレの音楽班の名物チーフの方がいらして、彼の部下だった花見ディレクターがちょうど研音の社長に就任したタイミングだったんです。じゃあ、その就任祝いに明菜を研音にお任せしようと、イケブンさんの鶴の一声。それで、その花見さんが、たまたま僕の直属の上司だった小田洋雄さんと親しかったので、これまたイケブンさんが調整してくれて、だったらレコード会社はワーナーで、と。

―― 義理と人情の世界。

まぁ、そういうことです(笑)。ただ、当時の両社の状況を説明すると、研音さんはまだ歴史も浅く、実績も少なかったし、ワーナーも78年に渡辺プロ(当時)が資本を引き揚げると、同社所属の小柳ルミ子さんやアグネス・チャンさんら人気歌手がスタッフと共に他社へ移って、邦楽部門は閑古鳥が鳴くような状況でした。本来なら、『スタ誕』で11社もプラカードが上がるような有望新人は、もっと大手のプロダクションやレコード会社が獲得しそうですが、ひょんなことからウチに来たのはラッキーでしたね。

―― それで島田さんの担当に。

当時、僕がいたのは制作3課と言って、3人しかいない課だったんです。先ほど名前を挙げた小田さんが課長で、あとは僕と同僚の2人だけ。それで小田さんから「今度の新人がダメだったら、君たちもうクビだから」とか言われて、焦りました(笑)。その矢先、同僚が担当していた増田けい子(現:増田恵子)さんの「すずめ」がドーンと当たって、ますますこっちの肩身が狭くなって…。これはもう、明菜に命かけるしかないと。

大手と同じことをやっても太刀打ちできない


―― 明菜さんをデビューさせるにあたって、何か戦略は?

大きく3つのコンセプトを考えました。1つは、先ほども申し上げたように、いわゆる “従来のアイドル” の枠に収めない。僕自身、よくあるルンルンランランタイプのアイドルは苦手だったんですよ。ミニスカートをはいて、お尻をふってルンルンって、嘘つけと(笑)。女の子は可愛いだけじゃない。なかなか皆さん、したたかでしょ、と。そもそも、大手のレコード会社やプロダクションと違って、こちらは弱小連合。同じことをやっても太刀打ちできない。ならば、その逆を行こうと。

―― 逆。

本人の個性を尊重する...つまり、リアリティ路線です。明菜は決して多弁な子ではなかった。愛想がいい子でもない。ならば、無理に笑顔を作らせるより、ナチュラルで行こうと。等身大の16歳や17歳の女の子の路線でいこうと。

―― 等身大。

そうです。それが後に共感を呼んで、女性ファンが増えるキッカケにもなります。2つ目が “本格的に歌える歌手にする” 。従来のイメージ先行型のアイドルと違って、しっかりと歌い込んでいく。幸い、本人は歌を歌うのが好きと言うし、天性の歌唱力もある。表現力もある。これを伸ばさない手はない。

―― 花の82年組の中でも、歌唱力は1つ抜けていました。

そして3つ目が「アルバムが売れるアイドルにする」。あの当時、シングルもアルバムも両方売れていたアイドルは、冒頭でも申し上げた通り、松田聖子さんしかいなかった。明菜もその路線を目標にしたんです。それがシングルとアルバムを交互に出すという戦略になりました。結果的に楽曲の幅も広がり、後にアーティストとして評価される要因にもなります。

ファーストシングルを売ろうなんて、全く考えてなかった




―― デビューは、1982年5月1日。82年組の中では、かなり後発でした。

そもそも、『スター誕生』の決選大会の収録が前年(81年)の11月で、レコード会社がワーナーに決まったのが翌12月。その時点で、同期からかなり出遅れてましたね。当時の音楽業界は、シングルはリリース日の75日前までに完成させないといけないルールだったので、そこから巻いて、なんとか5月1日のデビューにこぎつけたという感じです。

―― デビューまで、たった5ヶ月弱。

一方、他社のアイドルは時間をかけて準備をして、3月、4月のデビューでしたから、テレビや雑誌などメディアへの露出も多かった。もう、最初から明菜は離されてましたね。だから正直、僕はファーストシングルを売ろうなんて、全く考えてなかったんです。第一、ビッグネームの方たちから断られていたので…。

―― それは、作曲家や作詞家の方ですか。

ええ。当時の音楽業界は「競合歌手には楽曲を提供しない」という不文律があって、大御所の先生たちは、とっくに他の新人アイドルに書いていました。でも僕は、割と負けん気が強くて天邪鬼だから、それならそれで、やってやろうじゃないかと(笑)。で、今でこそ当たり前になったけど、作家事務所ってところに協力を依頼して、とにかく、作家のネームバリューやキャリアにこだわらないから、ボツになった歌でも、誰に提供しようとした歌でも構わない。書き下ろしじゃなくていいから、いいと思う曲をください!… と頭を下げて、楽曲を集めました。結果的に、こちらが曲を選べる自由度が上がって、アルバム曲のストックになったんです。だから、ファーストアルバムの『プロローグ〈序幕〉』はクオリティも高く、デビューから2ヶ月後の7月1日に出したところ、初登場7位。デビュー曲の「スローモーション」が58位のスタートでしたから、それは驚きでした。

――“アルバムが売れるアイドルにする” … 目標達成ですね。

まさか、いきなり1作目からドーンとくるなんて考えてもいなかった。あの当時、新人アイドルのファーストアルバムが売れることは、まずなかったから。やっぱりお客さんが中森明菜という一人の人間を、その歌とか、キャラクターとか、アーティスト性とかを、デビューは出遅れちゃったけど、どこかで見てくださって、リアクションしてくれたという感じですね。

―― あの「少女A」の前に、既に見つかっていた?

その下地はありましたね。当時、メディアの露出は少なかったけど、その代わりに、明菜は地方のレコード店やラジオ局などを回るキャンペーンを精力的にこなして、直に歌声を伝えることで、着実にファンを増やしていきました。レコード店の現場スタッフからの評判もよかった。そこからジワジワと口コミで輪が広がった側面はあると思います。

―― それは、デビュー曲「スローモーション」のキャンペーン?

オリコン初登場こそ58位でしたが、ジワジワと上昇し、ファーストアルバムが出る頃には34位まで上がってましたね。結果的に、同曲は39週に渡り、オリコン100位内に入っていたんです。一見、アイドルのデビュー曲としては地味な印象でしたが、噛めば噛むほど味が出る名曲だったんです。

明菜も薬師丸ひろ子のような方向で売りたい




―― デビュー曲が決まった経緯を教えてください。

81年12月に明菜のレコード会社がワーナーに決まって、そこからデビュー曲を探すために作家事務所を訪ねて回るんですが、ちょうどその頃、オリコンのランキングで赤丸急上昇の楽曲がありました。薬師丸ひろ子さんの「セーラー服と機関銃」です。同曲を歌う彼女を見た時、雷に打たれたような衝撃を覚えましたね。これこそ新しいアイドルだ!って。映画ではセーラー服姿で機関銃をぶっ放して「カ・イ・カ・ン」とつぶやく一方、音楽では澄んだフラットな歌声を聴かせてくれる。なんてカッコいいんだ、と。明菜もこういう方向で売りたいと思いました。それで、同曲を作った来生えつこさん・来生たかおさんの事務所を訪ねたんです。

―― キティレコード。

ただ、あいにく、もう既に「セーラー服~」のヒットで色々なところからオファーが来ていて、かつご自身のアルバムも作らないといけない状況。「今は新しい楽曲を作れません」と一旦は断られました。そこで僕は「いやいや、それは構わない。こちらが求めているのは、過去にボツになった歌でも、誰に提供しようとした歌でも構わないし、あるいはアルバム用にストックしている曲でもいいから、とにかく良いと思う曲を聴かせてください」と頭を下げてお願いしたら、後日、数曲が送られてきて…「スローモーション」はその中の1曲でした。だから、書き下ろしじゃないんです。

―― そうだったんですか!(驚きの声)

いや、もしかすると僕がそう思っているだけで、たかおさんは「書き下ろしですよ」って言うかもしれない。いずれにせよ、世間的にはまだ日の目を見ない楽曲だったので、真相は本人にしか分からない。ただ、僕の中では書き下ろしであるとかないとか、どこかでボツになったとか関係なかった。ただただ、いい楽曲… それも「セーラー服と機関銃」を書いた、たかおさんの曲がほしかった。そして、期待通りの素晴らしい作品でした。

―― そう考えると、他の新人から出遅れた分、来生えつこ・たかおさんの楽曲と出会えたとも言えますね。

“人間万事塞翁が馬” じゃありませんが、残り物には福があるという(笑)。ビッグネーム全てから断られ、比較的新しい作家の方々にオファーするしかない状況で、ちょうど81年12月に「セーラー服と機関銃」がオリコン1位に。そのタイミングで、来生ご姉弟の事務所を訪ねて、結果的にデビュー曲の「スローモーション」や、ファーストアルバムのリード曲「あなたのポートレート」をいただけたのだから、本当にラッキーでした。



お客さんが、歌い手にとっての一番のクスリ


―― 震える話です。デビュー当初の印象的なエピソードはありますか。

デビュー直後の5月5日、としまえんの野外ステージでデビューコンサートをやったんです。朝、クルマでとしまえんに着いたら、今にも雨が降りそうな空模様。参ったなぁ… と一気に不安になりました。その時点でメディアへの露出も少なかったし、お客さん、来てくれるかなぁ… と。そして楽屋を訪ねると、今度は明菜が「こんな衣装は着たくない!」と、泣きながら大騒ぎしてる。もう、泣きっ面に蜂ですよ(笑)。暗澹たる気持ちでいると、そのうちお客さんがどんどん入って来る。他のスタッフたちも「どうなってるの?」と言い出して、そうこうするうち、満席に。その状況を知らされ、明菜も覚悟を決めたようで、落ち着きました。やっぱりお客さんが、歌い手にとっての一番のクスリです。そして明菜には、それを引き寄せる “引力” がある。

―― 素敵な話です。

ただ、普段は口数が少ない子なのに、衣装でここまで主張するのかと、その時初めて、明菜の違う一面を垣間見た経験でもありました。すると、そのあとも結構あちこちから、雑誌の人とぶつかったとか、インタビューの途中で喧嘩して帰っちゃったとか、色々な話が聞こえてきて…。それも、普段の彼女を知ってる僕からしたら、驚きでしたね。

―― あの大人しい子が。

それで、ある日聞いたんです。「こないだ、雑誌の取材で怒って帰っちゃったらしいけど、何があったの」って。そしたら「 “今日の下着の色は何色?” とか、“下着は何枚持ってる?” みたいなことを聞かれて… 私は歌を歌っているのに、なんでそんなことを答えなきゃいけないのか」って。僕はそれを聞いて、彼女の言う通りだと思いました。だから「そういうことを言うほうが間違ってる。いいよ、それで。そんなことを言う大人たちの話は聞かなくていい。帰っちゃえ」って言ったんです。そしたら、もっとバンバン帰るようになっちゃった(笑)

―― 時代とはいえ、昭和の悪しき文化ですねぇ。

本当にそう。特に新人アイドル、それも大手のプロダクションやレコード会社ならいざ知らず、当時の研音やワーナーは弱小連合だから、どこか、なめられた部分もあったんでしょう。ただ、明菜本人にそういう意識は全然なくて、相手が間違っていると思ったら、はっきりそう主張する。そこに一本筋が通っている。嘘偽りはなく、全てが本音なんです。その時、僕は気づいたんですね。この子はただ大人しいだけじゃない。しっかりと大人を観察していると。そして、心を許した相手には、本当に素直でやさしい子になる。

―― 今なら、誰もが知る明菜さんの魅力です。

この詞なら、明菜の芯の強さも表現できるし、同世代の子たちの共感も得られる




そんな矢先、ある作家事務所で1つの詞に出会ったんです。それが、まだ新人作詞家だった売野雅勇さんが書かれた 「少女A」の原型でした。「この詞なら、明菜の芯の強さも表現できるし、同世代の子たちの共感も得られるかもしれない」―― そんな風にピンと閃きました。そして、ほぼ同時期に、作曲家の芹澤廣明さんの楽曲とも出会います。それは、元々は別の詞がついてましたが、エッジの立った曲にガツンと惹かれました。その時、僕は2人が同じ作家事務所に所属していると気づいたのです。

―― 結末を知っていても、ワクワクする話です。

僕は2人をワーナーに呼んで、芹澤さんのメロディに、売野さんの詞をはめられないかと相談しました。まぁ、前代未聞の話です(笑)。この時、彼らはお互い初対面で、後にチェッカーズのヒット曲を多数手がける名コンビになろうとは、誰が予想したでしょうか。最初、嫌がられるかな、と思いましたが、逆に面白がってくれて。それで詞をメロディにはめていくと、奇跡的にキレイに収まったんです。そんなことってあるんですね。それで完成した作品をその場で芹澤さんに弾き語りで歌っていただいたら、もうそれがカッコよくて。 “これは売れる!” と確信しました。きっと明菜と同世代の子たちにも響くと。

―― 奇跡。

ところが、有名な話ですけど、この話には続きがあって、ここからが大変でした。明菜の所属事務所の研音の会議室で、次のシングルはこの曲で行くと、彼女にデモテープを聴かせたら、「歌いたくない」と。「少女A」の “A” を明菜のイニシャルの “A” と勘違いしたんですね。自分のことを調べ上げて書いたんだと。「いや、そうじゃない。このAは世間一般の女の子を称してのAだから」と一生懸命説得しても、「嫌だーー!!」って鼻を垂らしながら泣き叫ぶ。僕は絶対売れると確信してたから「うるせぇー!!」とこちらも言い返して。もう大喧嘩ですよ。最後は、埒が明かないから「これが売れなかったら、僕はもう担当を降りる。だから歌えーー!!」って説得して。

―― 修羅場。

レコーディングも険悪な雰囲気。でも、この時は彼女の怒りの気持ちがいい具合にボーカルに乗って、3テイクほどで期待以上のものが録れました。それから1ヶ月ほどはまともに口を聞いてもらえませんでしたね。その間、セカンドアルバム『バリエーション〈変奏曲〉』のレコーディングがあったので、必要最低限の会話はしますが、今までのような冗談も一切言えなくなった。

―― なるほど…。

そして、7月28日の「少女A」のリリース日を迎えます。オリコン初登場が40位。そこから一気に火がつきました。業界でも話題になって、ランキングもどんどん上昇します。9月半ばには、あの『ザ・ベストテン』(TBS系)に9位でランクイン。もちろん、同期で一番乗りです。彼女を取り巻く状況が一気に変わりましたね。そしたらある日、明菜から僕に、やさしい声で「島田さん…」って。

――(笑)



かくして、花の82年組の最後尾(しんがり)からスタートした中森明菜さんは、見事にセカンドシングルで同期初の『ザ・ベストテン』入りを果たし、ブレイクする。後編は、自身初のオリコン1位となったサードシングル「セカンド・ラブ」から、初のレコード大賞曲「ミ・アモーレ」までの軌跡と、島田雄三流レコーディング術を解き明かす。

【ザ・プロデューサーズ】島田雄三 / 中森明菜 の後編は、5月5日(日)に掲載予定。お楽しみに!

参考図書 / 島田雄三・濱口英樹 著『オマージュ〈賛歌〉to 中森明菜』(シンコーミュージック・エンタテインメント)

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2024.05.01
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カタリベ
1967年生まれ
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