新しいアーティストやバンドのデビューラッシュだった80年代前半
80年代の出来事を振り返っていたら、“1985年10月21日、米米CLUBがシングル「I・CAN・BE」とアルバム『シャリ・シャリズム』でデビュー” という記述が目に留まった。そういえば、デビュー前の米米CLUBとは、ちょっとだけ縁があったことを思い出した。
80年代の前半、僕はライターとして、当時のFM誌や音楽雑誌に記事を書くようになっていた。そんなある日、母親が「私の女学高時代のお友達の息子さんがバンドをやっていて、なにかちょっと相談をしたいみたいよ」と言ってきた。久しぶりに、電話で友達と長話をしたらしかった。
とりあえず彼と会うことにして、喫茶店で少し話をした。彼がメンバーとして参加しているバンドのレコードデビューの話が進んでいるのだけれど、果たしてプロとしてやっていけるのだろうか、という相談だった。
80年代前半は、新しいアーティストやバンドのデビューラッシュの時代でもあった。それだけに、レコード会社も競って各地のライブシーンで頭角を現しているバンドに目をつけ、声をかけていった。彼のバンドも、いくつものレコード会社から声をかけられていたようだった。けれど、デビューしたからといって、その後もしっかりやっていけるかどうかには何の保証もない。不安になるのはあたりまえだった。
活動も音楽的内容もしっかりしたバンド、米米CLUB
デビューしたからといって将来の保証が無いことは、60年代も、70年代も変わらなかったけれど、その時代はロックやフォークのマーケット自体も小さく、プロになれる人数もけっして多くはなかった。
しかし、70年代後半から80年代にかけて、ロックやフォークの流れを汲む音楽がニューミュージックとなり、マーケットもどんどん大きくなっていく。それとともに、多くの若いアマチュアミュージシャンがプロとなっていった。だから、レコードデビューという話を目の前にして、不安を抱える若いアマチュアミュージシャンの数も、昔とは比較にならないほど増えていた。
本人に許可を取っていないので、話をしたのが誰かは伏せさせて頂くけれど、話を聞く限り、活動も、音楽的内容もしっかりしたバンドのようだった。
そのバンドが米米CLUBだった。
みんなを楽しませる圧倒的で面白いステージ
トーキングヘッズの派生バンドであるトム・トム・クラブをもじったバンド名にもセンスが感じられた。とにかく、彼に対して、あまりいいかげんなことを言うわけにもいかないので、一度ライヴを見せてもらうことにした。
そんな経緯で、はじめて米米CLUBのライヴを観に行ったのは、渋谷と原宿の間にある名門ライブハウスのクロコダイルだった。着いた時には、もう客席はぎっしりと埋まっていた。そして彼らのステージは圧倒的だった。その面白さは予想以上。
既成の音楽ライヴらしさに囚われない、良い意味でのアマチュアっぽい自由さが感じられる新鮮なステージ。例えば、いきなり寸劇が始まる。それも、いいかげんな茶番じゃない、かなり本格的なものだ。尺も長くて、コミカルな演技に笑いながら、ふと僕はなにを観に来てるんだろうと思ってしまう。そんなタイミングでいきなり演奏が始まる。
この演奏のレベルも高い。音楽性はトム・トム・クラブとは違っていたけれど、ファンクのテイストにあふれた熱いヴォーカル、そして演奏には、聴き手を一気に引き込むのに十分な熱量と魅力があった。ステージの上からは、みんなを楽しませるためには何でもやってやろうという熱さがあり、そこで行われていることは、けっしてデタラメではなかった。
笑いと音楽をテーマにしてきたバンドに通じるスピリットとは?
そして、音楽性と笑いのエッセンスを武器に、自分たちの想いをオリジナルなスタイルで表現しようとする志があった。古くはハナ肇とクレージーキャッツ、近くはダディ竹千代と東京おとぼけCatsなど、笑いと音楽をテーマにしてきたバンドに通じるスピリットが感じられる。
クロコダイルのステージを観た後、母親の友達に「息子さんの居るバンドは絶対に売れるから、心配なさらなくて大丈夫です」と伝言してもらった。
その後、僕はライターとして米米CLUBにかかわることは無かった。けれど彼らのレコードは聴いていたし、コンサートも何度か観に行ったりするなど、個人的に好きなバンドのひとつだった。初期にはイロモノバンドと見られることもあったし、「浪漫飛行」(1990年)のブレイク以降はマイルドになってしまったと言われることもあった。
しかし、そんな時期でも、米米CLUBは笑いと反骨精神を軸としたファンクスピリットを貫き通したバンドだった。
※2018年11月7日に掲載された記事をアップデート
2021.08.08