2018年10月21日、音楽評論家にして編集者の阿木譲が亡くなった。
氏が主宰した大阪発の『ロック・マガジン』(1976~1984年)といえば、北村昌士が初代編集長を務めた東の『フールズメイト』と並んで、その時代の最も先鋭的なマイナー音楽の紹介に尽力した西の伝説的音楽誌である。バックナンバーを眺めるとどっちも怪しい雰囲気が濃厚だが、『ロック・マガジン』は軽やかな知の羽ばたきを見せる稲垣足穂~松岡正剛の系譜に連なる「天空学」、『フールズメイト』は徹底してアンダーグラウンドを極める澁澤龍彥~高山宏の系譜に連なる「洞窟学」と言えば分かる人には分かるだろうか?
今回のコラムで取り上げたいのは、その「天空学」を超えて「月光派」を自称した人物、田中浩一(1955~2010年)である。
ところで田中浩一って、誰? WHO?
ひとまず、後期『ロック・マガジン』主筆の音楽ライターと答えよう。阿木氏の物故に際して沢山の追悼記事が書かれたが 、その彼を支えた一人である田中浩一の音楽ライターとしての業績は未だまとめられることもなく、散逸したまま、忘却の彼方へ追いやられつつある。
湯浅学、根本敬らによる「幻の名盤解放同盟」のような珍盤蒐集の動きが、そろそろ音楽批評にもあっていい頃ではないか。「名」批評と「迷」批評の線引きはときに難しい。というわけでここは一つ、この田中浩一なる謎めいた書き手(この恐ろしく凡庸な名前をもつ非凡な才能を、以下「TK」と呼ぶ)を「レアグルーヴ」を漁る手つきで発掘してみようではないか。
書きたいことは山のようにあるが、兎にも角にも、まずは TK の以下の文章を読んでみてほしい。これが、短いスペースで読者に音楽の内容を伝える「レコードレヴュー」の形式だということを念頭において――
マニエリスティック支那趣味恋愛と新盆栽ニヒリズム。
ミック・カーンの支那趣味的新貴族主義音楽は、ニューロマンティーク世界を超えた盆栽音楽だ。一個の事物としての植木を徹底的に人造変幻さしてキッチュな似せの内的自然を形造る盆栽世界こそミック・カーンなのだ。デヴィッド・シルヴィアンのフェリー的精神恋愛や東洋憧憬以上に、東洋や中近東をオヴジェ化し、人造自然の夢世界たらせようとする彼。これこそ盆栽という夢自然のロマンだ。(中略)ジャパンがニホニーズ・ポップである一風堂、YMOの影響により東洋異国情趣であろうとする今、彼こそがそれよりも早く盆栽音楽で二ホニーズする。
MICK KARN『TITLES』評(『ロック・マガジン』1983年1月号、42頁より)引用は原文ママ。
(いろんな意味で)ものすごい文章だ。「支那趣味的新貴族主義音楽」ってナニ?「盆栽音楽」ってナニ?「ニホニーズ」ってナニ? とおびただしい造語の炸裂(誤爆?)に読者は驚かれるかもしれない。とはいえ「テクノポップ」というタームを発明した阿木譲が主宰する『ロック・マガジン』であるから、これは当然と言えば当然の傾向だ 。
しかし、これを「ロック・マガジン的傾向の文章」と単純に片付けていいのだろうか。他のライター達のライター然とした「言葉遣い」に対して、TK のそれは「文体」の域に達している。調べてみると、彼は90年代に入って異端の歌人・塚本邦雄(もう一人のTK!)に弟子入りし、歌誌『玲瓏』に毎号30近い短歌を発表していたことが分かった(1997年には第8回「玲瓏賞」まで受賞しているから、熱意に加えて才能もあった)。要はそれぐらい「言葉」というものに拘った人物だということ(この辺り、音楽は言葉にした時点で「言葉」に過ぎなくなることを思い出させてくれる)。
独自の「文体」を持っているのに加え、TK は誰よりも「精神」の美しさを謳った。彼が『ロック・マガジン』でカリスマ(≒独裁者)阿木譲にこき使われ、二足のわらじでやっていた高校教諭の方にも差支えが出始めたのを機に、自分のペースで自由に進められる媒体を始めることになる。それが『Rév』である。とにかく創刊号の「Rév宣言」は永遠不滅、引用しよう――。
「精神は、昔光速で恋する人の所に翔んで行って思いを告げたり何億という人を変革させたり、銀河系宇宙を一瞬のうちに出現させることができた。それが精神なんだと誰もが、当たり前に信じていた。」
エモい!… が、一歩間違えればキモイ文章である。でも「名」批評と「迷」批評は紙一重と先に書いたように、エモいとキモいも紙一重である。僕はこの文章は絶対的にエモく、感動的と思った。ところでこの文章からも分かるように、『ロック・マガジン』時代から TK の最大のフェティッシュ・ワードは「精神」である。
小難しい話は避けるけど、「精神史」というのが僕のキーワードにして方法。だから最近、『機関精神史』という同人誌を始めた(文学フリマですごく売れた!)。奇遇にも、TK が『Rév』を創刊したのが29歳のときで、この雑誌を僕が作ったのも29歳の頃だった。そして何より、両誌とも「精神」の大切さを最大のテーマにしていて、似た者同士だ。例えば以下の TK の文章は、そっくりそのまま『機関精神史』が表明したいことでもある。
「どのような最新の理論も、哲学も、モードも、それらが自分の精神や何ものかのものと関わり、関係の中で葛藤、反抗、措定、嘆嚇、嘔吐しないと意味がないんじゃないか?」(『Rév』三号、「フロム・エディター」より)
現代では失われてしまった精神を、生きざまを、そして人間を、取り戻したいと僕は思っている。だから『機関精神史』の別冊増刊号で、田中浩一の音楽方面の仕事を「グレイテスト・ヒッツ」的にまとめたいと思っている。この作業は、今現在の機能主義的で実用的な、「具体的な音そのもの」を聴取する立場の音楽語りに対する、僕なりのやんわりとした「否」の表明になるだろう(議論は無意味だからやらない)。
最後の最後に、TK の思春期にこそ、その独自の「精神」が育まれる土壌があったことを見ていきたい。『Rév』創刊号の編集後記によれば、ザ・スミスのリリックに出てくるような、孤独で内省的なティーンエイジャーだったらしい。
「吃音で赤面症、自閉症そのくせ友達が欲しくてたまらなく学校にだけは行く。でも授業が始まると決まって余りの緊張にガタガタふるえ出す。クラスの者達から野次られたり苛められたりが恐ろしくて授業が終わると飛んで帰る。そんな僕にとってキャンパスやら埃臭い図書館の隅っこやら黒いどっしりとした(昔の外国製レコードは凄く黒く厚かったんだ)ヴィニール盤は苦しみを解き放ってくれるかけがえのないものだった。29歳の今も何ら変わりがない。」
こんな臆病で引っ込み思案な彼だからこそ、以下に引用するような繊細で想像力に溢れたレコードレヴュー(?)が生まれる。これはドイツ・ロマン派の精華ノヴァーリスを崇拝する TK流の「幻想文学」であると同時に、彼の「精神」の煌めきそのものである。
ルナティック・モダーンな蒼い花の霊からの贈り物。
キラキラ輝く蒼いスミレの花 シノワズリ(支那趣味)のジャスミンの匂いの漂う細い指先 「溶ける魚」という名のアンドレ・ブルトンの飼っていた存在しない実在の魚 陽炎の断片の中で僕はコバルト・ブルーの瞳の中を泳いでいた あなたは何処から来たの あなたの瞳の裏側からよ……
高橋幸宏『WHAT, ME WORRY?』評(『ロック・マガジン』1982年8月号、58頁より)
ここに音楽の話は一切ない。でも TK はこのイマージュの戯れを通じて、そしてその独自の「文体」で、音楽によって充ち溢れる「精神」の歓喜を語ろうとしている。不思議と光景が目に浮かぶ超現実的描写だ。
何を隠そう、TK はウィーン幻想派の領袖エルンスト・フックスを画業の最大の師とする画家でもあったのだから、それも当然のことかもしれない。彼の画集『幻視人』に収められた異形の絵画群を眺めながら、まだまだ僕たちの TK研究は始まったばかりだと思うのだった。
追記
僕の友人で『塚本邦雄全歌集輪読会』を主宰するドリームポップ歌人・結崎剛くんより機関誌『玲瓏』の情報を教えてもらった。ちなみに僕が選ぶ TK のベスト短歌は、「人は皆唯一無二の青持てど気付かずに生く、フェルメール・ブルー」(田中浩一歌集『此岸譚』所収)。
2018.12.13
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