2018年 5月16日

ヒデキはまだ生きている!西城秀樹は筋金入りのロックンローラーだ!

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筋金入りのロックンローラーだった西城秀樹


また今年も、5月16日、ヒデキがブルースカイに旅立った日がやって来る。先日も『Re:minder』に書いたけれど、私の中でヒデキはまだ生きていて、かつ “現役” だ。

今回また命日に合わせて、あらためて「ヒデキが遺したもの」について書いてほしいと依頼を受けた。…… 困ったな、100回分は必要なんですけど(笑)。ま、読者も疲れるだろうし、こっちも身がもたないので、端的に記してみたい。

『西城秀樹のロック愛が爆発!独立第1弾シングル「ギャランドゥ」が意味するものは?』にも記したように、ヒデキは筋金入りのロックンローラーだ。小学生のとき、実兄とアマチュアバンド “ベガーズ” を結成し、ドラマーとして活躍。地元・広島のアマチュア音楽シーンでは名の通った存在になっていったヒデキ。当時聴いていた音楽も当然、ゴリゴリの洋楽ロックだ。

高校生になると、ヒデキは専属バンドのメンバーとしてR&B喫茶で歌うようになり、芸能事務所のスカウトを受ける。父親の猛反対を押し切って上京、1972年3月に16歳で歌手デビューするのだが、第1弾シングル「恋する季節」は筒美京平作曲。ロックではなく青春系ポップス、つまりは歌謡曲だった。

もちろん、本人もそれは承知の上で芸能界入りしたのだけれど、私がヒデキを尊敬するのは「普通の歌謡曲にはしたくない。ロックを演ってきた自分なりの色を出そう」と自分なりに工夫し、懸命に歌ったことだ。そういう、何事にも手を抜かない姿勢がロックだなと思う。

ヒデキがロック魂を露わにした「薔薇の鎖」


その後、芸能界の勝手がわかってきたところで、ヒデキは徐々にその “ロック魂” を露わにしていった。私が最初に衝撃を受けたのが、1974年2月発売の第8弾シングル「薔薇の鎖」だ。TV画面に現れたヒデキは、やおらマイクスタンドをひっくり返し、振り回しながらこの曲を熱唱した。

当時小2だった私は「えええ~! あんな重いものを!」と仰天。TVでそんなことをして歌う歌手は日本にいなかったし、小学校で掃除の時間、モップをマイクスタンドに見立ててよく真似したものだ。

実は、このマイクスタンド・パフォーマンスは、当時フェイセズの来日公演を観に行ったヒデキが、マイクスタンドを自在に操って歌うロッド・スチュワートの影響を受けて始めたものだ。

ヒデキは、同行したかまやつひろしと共にロッドのマイクスタンドに触らせてもらい、軽量のアルミ製だと知ると、さっそく業者に製作を依頼。つまり真似したのだが、いま映像を見比べてもヒデキのほうがパフォーマンスは派手で、強烈なインパクトがあった。

テレビという枠にロック界の最先端のパフォーマンスをブチ込んだヒデキ


テレビという枠の中に、ロック界の最先端のパフォーマンスをブチ込んだヒデキ。彼を通じて、われわれ当時の小学生たちは気づかないうちにロック魂を刷り込まれていたのである。

そして、これが重要だけれど、ヒデキは「売れた」。いくら派手なパフォーマンスをしたところで、曲がヒットしなければ「ああ、そんなのいたねー」とキワモノ扱いされるだけだが、ヒデキはこういったパフォーマンスを着実にヒットへとつなげていった。

ヒデキが時代のあだ花で終わらなかったのは、彼が少年時代からロックを愛し、ロッドらと同じ精神でステージに立っていたからである。“ホンモノ” だったから心に響いたのだ。ヒデキが売れたことで、当時その亜流のようなパフォーマンスをする男性アイドルも現れたが、やがてみんな消えていった。表面だけ真似したところで、上っ面なものは残りはしない。

「傷だらけのローラ」を熱唱した紅白歌合戦


この1974年の大晦日に、ヒデキは紅白歌合戦に初出場。私もリアルタイムで観ていた。白組トップバッターとして現れたヒデキは、なんと怪傑ゾロ風の衣裳で登場。目元を仮面で覆い「傷だらけのローラ」を熱唱した。

その格好にも驚いたが、さらにビックリしたのが、ステージにモクモクと沸き出したスモークだ。今でこそごく当たり前の演出だが、紅白という大舞台でそんなことをしたのはヒデキが初めてだった。これも海外ロックアーティストの公演を観て実行したのだろうが、恥ずかしながら、私は一瞬「なにコレ? 火事!?」と思ったことを告白しておこう。

日本の男性シンガーとして初めて、単独でスタジアム公演を行ったのもヒデキが最初だ。大阪球場コンサートは毎年恒例となって10年続き、ライヴ盤も出ているので、その熱狂をぜひ味わってみてほしい。

こういったヒデキの革新的な取り組みは、日本のステージ技術を確実に進歩させた。繰り返すが、芸能界の第一線にいたヒデキが「こういうことがしたいんです」と熱意を持って訴えたから、各部門のプロフェッショナルたちも協力し、技術の進歩につながったのである。



どんどん壁を突き破っていくヒデキのパイオニア精神


真剣に音楽に向き合って来たヒデキは、80年代に入るとアイドルとしてのポジションは保ちつつ、幅広いジャンルの楽曲に挑戦。アーティストとしての側面を見せるようになる。

1980年2月にはスティーヴィー・ワンダーの「愛の園(AI NO SONO)」を、12月にはオフコースの「眠れぬ夜」をカバー。1981年の「ガール3部作」(「リトルガール」「セクシーガール」「センチメンタルガール」)の第2弾「セクシーガール」は横浜銀蠅の提供曲だ。

1982年「聖・少女」は、同郷の広島県人・吉田拓郎(作詞は松本隆)が書き下ろし。二人は広島のアマチュアバンド時代から接点があり、デビューから10年後、ついにコラボが実現した。
1983年にはもんたよしのり提供「ギャランドゥ」をヒットさせ、続く「ナイト・ゲーム(Night Games)」ではグラハム・ボネットをカバー。

1984年にはワム!「ケアレス・ウィスパー」の日本語版「抱きしめてジルバ」をリリースと、この懐の広さは、ヒデキ自身の好奇心の旺盛さとチャレンジ精神あってこそ。こういった多ジャンルの歌を歌いこなすことはもちろん、歌手としての実力がなければできないことだ。

この「抱きしめてジルバ」を偶然ラジオで聴いて感銘を受け、ヒデキにデュエットを打診したのがバリー・マニロウだ。1985年に「腕の中へ -In Search of Love-」をリリース。日本語詞は前作「BEAT STREET」を作詞した吉田美奈子が担当した。

1987年の「NEW YORK GIRL」はジャズ・フュージョン界で活躍したピアニスト、ジョージ・デュークのプロデュース。ジョージは「唯一無二の歌声」とヒデキを絶賛した。そう、ヒデキの歌は国境を越えていたのだ。



―― このように、どんどん壁を突き破っていくパイオニア精神もまた、素晴らしくロックだなと思う。だからこそ「ヒデキはまだ生きている」のだ。
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2023.05.16
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カタリベ
1967年生まれ
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