11月23日

佐藤信 × 妹尾河童「1983 YMO ジャパンツアー」解散じゃなくて散開!

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YMOが「1983 YMO ジャパンツアー」を月寒グリーンドームで初日公演した日
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YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)も僕にとって想い出の多いアーティストだ。

彼らの原型だった はっぴいえんど やサディスティック・ミカ・バンドも好きだったし、坂本龍一にも友部正人のバックで演奏していた頃から注目していた。だから、三人が “イエロー・マジック” というコンセプトをもったグループを結成し、テクノという画期的スタイルで活動を開始した時にも興味津々で、1978年10月18日に東京郵便貯金ホールで行われた、おそらく彼らの最初のライブにも行っている。

そして、最初は彼らのことを “変なことを始めた奴ら” と色物扱いして、ほとんど無視していたメディアが、「YMOが海外で成功をおさめた」というニュースが伝わるやいなや、鮮やかな手のひら返しで彼らを “時の人” に祭り上げていく様子も、その余波で起こった “公的抑圧” に翻弄されながらも、彼らが三者三様のスタイルで、さらなる音楽表現の可能性を模索して格闘していく様子も見てきた。

だから、彼らについて語りたいことはいろいろとあるのだけれど、ここでは36年前の1983年11月から12月にかけて行われた『1983 YMO ジャパンツアー』について触れてみたい。

記憶がはっきりしないのだけれど、この年の夏頃だったと思う。YMO の事務所から、ツアーのパンフレット制作の依頼をもらった。この時、事務所のスタッフから、YMO が活動を停止するので、これが彼らにとって最後のツアーとなるということも聞いたハズだ。

彼らの活動停止については、それほど驚きはしなかった。というのも、この頃の彼らは、グループとしての活動よりもそれぞれの個人的活動にエネルギーを注いでいたし、この年の春に発表されたシングル「君に、胸キュン。」やアルバム『浮気なぼくら』には、歌謡曲のフォーマットと YMO のサウンドコンセプトを合体させて、ポップミュージックの可能性を探ってみようとする、いわば新たな歌謡曲の形を模索しているようなニュアンスも感じていた。あえて言えば、この時点の彼らからは、グループとしての YMO を推進していこうとするダイナミズムはあまり感じられなくなっていた。だから、遅かれ早かれ、その時は来ると感じていたのだ。

もちろん、この時点では YMO の活動停止については部外秘だった。だから、ツアーパンフでも解散には触れないことになり、メンバーそれぞれのインタビューを取り下ろした時にも、“活動停止”には触れないように話を進めた。しかし、3人ともすでに YMO の活動停止については、それぞれの中で消化していたのだろう、活動の展望について、前向きの姿勢で語ってくれた。その話を聞きながら、結成以来5年間のYMOとしての活動は、ものすごく濃い時間だったんだなあと実感しつつ、彼らはやるべきことは、とりあえずやり切ったんだなとも感じていた。

だからこそ、「最後のツアーで彼等がなにを見せてくれるのだろう?」と興味が湧いた。今回のツアーで、演出に劇作家の佐藤信が起用されていたことも期待が広がる要因だった。

佐藤信は “黒テント” で知られる演劇集団、演劇センターを率いて、唐十郎の “紅テント” こと、状況劇場とともに、1970年代の演劇シーンをリードしていった鬼才だった。彼がかかわることで、YMOのステージがどんな輝きを見せるのかは、“黒テント” ファンでもあった僕にも、なかなか想像できなかった。「明るくは、ならないと思うよ」と、パンフレットのインタビューで会った佐藤信は言った。

10月に入って、YMO の活動停止 “散開” が発表された。“解散”ではなく、メンバーそれぞれが散って自分の持ち場でさらに音楽を追求する。そしてその後は…。“散開” という言葉には、そんな未来の可能性も込められていると思った。その発表の後、当然のようにツアーチケットはプラチナチケットとなった。

ツアーパンフもなんとか完成し、11月23日、6都市9公演という『1983 YMO ジャパンツアー』は、札幌の月寒グリーンドームからスタートした。札幌ドームが出来ていない当時の札幌としては大型の会場だった。おそらく、この時代に現在の設備環境があったとすれば、このツアーはドームツアーとして展開されていたことだろう。

続く11月28日の愛知県体育館で、ぼくはこのステージを初めて観た。確かに、佐藤信が言うように、明るいステージではなかった。黒を基調としたゴシック調の祭壇を思わせるようなステージセット。この舞台美術を担当したのはステージ美術の第一人者、妹尾河童だった。

重厚なセットに響く YMO のサウンドは、ある種の宗教音楽のようにも聴こえた。佐藤信は、演出のテーマを “プロパガンダ” と語っていたが、会場に響く音楽は、表面的な心地良さをもたらすのではなく、自分の身体の奥にある本能的な感覚が刺激されるような演奏だった。それは、彼らの最後の演奏を味わうだけでなく、80年代の初頭の日本に YMO の存在がなにをもたらしたのかを、改めて問い直すステージでもあったような気もする。

『1983 YMO ジャパンツアー』中の12月14日、YMO は、この時点でのラストアルバム『サーヴィス』を発表。翌1984年2月には、『1983 YMO ジャパンツアー』のライブアルバム『アフター・サーヴィス』を発表し、活動にピリオドを打つ。

“散開していた” YMO が “再生” し活動を始めるのは、それから10年後の1993年のことだった。

2019.11.07
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カタリベ
1948年生まれ
前田祥丈
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