9月8日

プリンス初来日公演、歴史に残る狂乱の横浜スタジアム!

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プリンスの初来日公演「パレード・ツアー」が横浜スタジアムで開催された日
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photo:Warner Music Japan  

プリンス「パレード・ツアー」クリエイティビティでの絶頂期に初来日公演


プリンスの初来日公演を歴史的たらしめたのは、夏の終わりの夜の野外公演であったことだった。

It was 35 years ago today
35年前の今日、1986年9月8日、プリンス&ザ・レヴォリューションは横浜スタジアムでの2公演の初日を迎えた。

『パープル・レイン』(1984年)ツアーでは来日せず、『アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ』(1985年)の後にはツアーが無く、この年発表の『パレード』を受けてのツアーでプリンスは初めて日本の地を踏んだ。大阪城ホールで2公演を行った後、この日が関東での初めての公演であった。

当時のプリンスは、3年連続で全く違う表情を持つアルバムを世に問うた、正にクリエイティビティでの絶頂期。当然初来日は盛り上がり、朝刊で新聞発表を見て友人にプロモーターに整理券を取りに行ってもらったものの、結果はハマスタのスタンド、それもバックネット裏の18列めだった。

たとえ後方でもアリーナ席は別世界!


コンサートは18時前、未だ明るい中前座のシーラ・Eから始まった。外野のセンター辺りに作られたステージはやはりスタンドから遠く、アリーナには所々に白や黒の風船が浮かんでいて別世界。何とも羨ましかった。席によってはタンバリンも置かれていたそうだ。

30分位のステージの後、休憩が入る。ここで奇跡は起こった。

僕と友人の所に女性が2人やって来て、アリーナの後方だとステージが全く見えないので席を交換して欲しいというのだ。なぜスタンドの最前列ではなく中程の僕らに? なんて野暮なことを聞く間も惜しんで僕らはアリーナに降り立った。友人も僕も背が高かったことが幸いしたのかもしれないが、正に “わらしべ長者”。

53列めと後ろも後ろだったが、あのプリンスをアリーナで観られるのだ!

「アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ」で幕を開けたライヴ


18時55分に場内が暗転し、前作のタイトル曲「アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ」でライヴは幕を開けた。もちろんアリーナは総立ち。暗闇の中早くも観客のボルテージは最高潮。しかし歌が始まってもステージに下ろされた幕は開かずプリンスの姿は見えなかった。これがまた場内の亢奮をいやが上にも高める。

2コーラスめになっても幕が開かずこの曲はこのまま行くのかと思った矢先、間奏に突入しプリンスがシャウトすると同時に幕が落ちた。そこでは『パレード』のジャケットと同じコスチュームのプリンスが軽快なダンスを見せていた。

その瞬間、総立ちだった周りの観客は皆嬌声を上げ、遂には椅子の上に立ち始めた。アリーナ後方でただでもステージが見辛く、この席を譲ってくれた女性達の気持ちがよく分かったのだが、いよいよ何も見えなくなってしまい僕らも椅子の上に立たざるを得なかった。曲は『パレード』のオープニングナンバー「クリストファー・トレイシーのパレード」そして「ニュー・ポジション」とメドレーで続いたが、この間、皆椅子の上に立ち続け、足許が不安定な中、身体を揺らし声を上げていた。

続く、ザ・レヴォリューションのウェンディとリサが歌うスローな「アイ・ワンダー・ユー」で漸く係員に制され皆、椅子から降りたのだが、こんなに混沌としたオープニングは後にも先にも経験が無かった。屋外の暗闇と晩夏の夜に残る生温い熱気が作り出した、ひと言で言ってしまうと “ヤバい” 空気感は未だ鮮明に脳裏に焼き付いている。このオープニングだけで、このライヴが歴史的なものになることは約束されたも同然だった。

伝統的なソウルミュージックショーの一面も


ライヴは最新作『パレード』と前作『アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ』の曲を中心に進められた。

ダンサーやホーンをフィーチャーし、プリンス自らもマイクスタンドも駆使しながら大いに踊り、曲を短めに繋いでいく姿に、ソウルミュージックショーの伝統が強く感じられた。アグレッシヴなプリンスが、同時に伝統的なソウルミュージックの系譜にも連なっていることはこの夜の新鮮な発見であった。何せそれまではMVしか観たことが無かったのだから。でも一方でマイクスタンドと “交わられる” のもプリ様(当時こう呼んでいた)であった。

『パープル・レイン』からは本編では「ビートに抱かれて(When Doves Cry)」が歌われただけであった。初来日公演だったのでもう少し聴きたかったところだが、走り続けていたプリンスにとっては2作前のアルバムはもはや過去形だったのだろう。

忘れじのダブルアンコール、風の中の「パープル・レイン」


本編最後は1982年の出世作のタイトルナンバー「1999」。そしてアンコールは『パレード』から「マウンテンズ」、更に最新全米No.1ヒットの「KISS」と続く。正にプリンスの現在進行形だった。

そしてダブルアンコール。プリンスが上手側のスピーカーの確か上部に現れてイントロのギターを弾いたのが「パープル・レイン」だった。浜風で衣装もなびく中、プリンスが渾身のギターソロを弾いた姿をこの初来日公演の名場面に挙げる人も多い。大阪は室内だったため、この自然の演出による名場面は横浜の2夜でしか観られなかったのだ。

こうして僕等は歴史的なライヴを目撃した。この後も僕はプリンスが来日する度に観に行ったのだが、これ以降のライヴの記憶は初来日の時ほど鮮明ではない。

この翌日9日の日本最終公演が、『1999』から『パレード』までプリンスの超・黄金期を支えたザ・レヴォリューションとプリンスの解散ライヴとなってしまった。我々日本のファンはいよいよ歴史そのものを目撃したことになったのである。

世界的にも特別な2夜だった横浜スタジアム公演


今回、この原稿を書くにあたり改めて調べて発見があった。ウィキペディアの情報なので100%正しいかは保証出来ないが、パレード・ツアーでのスタジアムでの公演、並びに野外での公演は、欧米も含めて何とこの横浜スタジアム2夜だけだったそうなのだ。

『パレード』という、当時 “密室的” なサウンドと評されたアルバムを引っ提げたツアーが野外で、しかも大勢の観客を迎えて行われた。ミスマッチになっても不思議ではなかったが、しかしあの夜、蒸し暑さの残る天然の闇が作り出していたものは間違いなく “密室感” であった。だからこそ、あそこまでの狂乱が生まれたのではないだろうか。

「パープル・レイン」のあの自然が造り出した演出も、欧米を含めてもこの横浜スタジアムでの2夜しか観られなかったのだ。横浜での2夜は世界的にも特別なものになった。改めて35年前アリーナに降りられた幸運を、あの女性たちにも、心から感謝したい。


2021.09.08
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カタリベ
1965年生まれ
宮木宣嗣
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