ビリー・ジョエルが取材OK! MTVの番組内企画
1985年12月4日、私はNYにいました。日本のMTVとの合同企画で、番組視聴者3名とジャーナリストを連れて、ビリー・ジョエルに会いに来たのです。『MEET BILLY JOEL IN NEW YORK』という企画を番組内で立ち上げ、3名の当選者を連れて来ています。初めてのベスト盤『ビリー・ザ・ベスト』が発売されて数か月経っていますが、彼は取材を受けてくれました。
ビリーは次作の創作準備のため、ソーホーにある建物の広いワンフロアにピアノを持ち込んで、ひとり曲作りに励んでいるところでした。ちなみに、彼の創作準備はいつもこのパターンです。ある時は高級ホテルのペントハウスを貸切ったり、ある時は郊外のボートハウスを使ったりと、環境を変えて自分を追い込まないと曲が出てこない、というタイプらしいです。
「メロディがフト浮かぶ、とか天から降ってくる、という話をきくが、自分には全く考えられない」とコメントしたこともあります。
実は、親日家のビリーでも取材には厳しく、簡単にはOKを出しません。やったとしても、新譜発売時に1本あればいいほうです。しかも今回は “視聴者が会いに行く” という特別な企画でした。が、あにはからんや、実は意外とすんなり受け入れてくれたのです。
理由は明らかです。番組名がMTVだったからです。実は、この時期の日本のMTVは、アメリカのケーブルによる24時間放送とは全く違って、大阪のABCテレビがMTVとライセンス契約をし、素材提供などを得て週一回全国放送している洋楽番組でした。とは言えMTVはMTVです。ビリー側には番組はMTVとだけしか伝えていません。これで十分でした。
勢いを持っていた新しいメディア
この企画以前にも国内でMTVの力を感じる場面はいくつかありました。ABCも契約しておらず、日本にMTVが全く縁も所縁もない1983年。CBSソニーはスーパーグループ、エイジアを発売していました。担当は私ではありませんが、身近なところにMTVが来ていました。彼らのワールドツアーは12月の日本からスタートしますが、まさに本国の番組企画として『ASIA FROM ASIA』と銘打って日本武道館公演をアメリカMTVが生中継したのです。
ライブはNYタイム深夜に合わせていたので、こちらでは平日の昼間というやや微妙な時間帯にスタート。これはまるまるMTVためのライブでしたが、当時のスーパーグループが自分達の興行までをMTVに合わせるというほど、この新しいメディアは勢いを持ってました。
こちらは自分の担当案件でしたが、こういうこともありました。1984年ビリー・ジョエルですが、日本武道館公演の楽屋にオーストラリアCBSのスタッフがMTVの視聴者数名を連れて来てましたし、「フットルース」の大成功をうけたケニー・ロギンスの武道館公演でも楽屋に同じチームがあらわれてました。MTVがスタート以降どこの国でも同じようなことをやっていました。
我々なら、LAやNYに行くところでしょうが、彼等にしてみれば、東京でライブを観て楽屋で挨拶、ということが、オージーの視聴者にアピールできるポイントだったのですね。日本公演が実現しているということは、その前後にオーストラリア公演は大体決まっているはずです。それでも東京まで来るということは、日本旅行もついた豪華なものだったはずです。
アーティストと視聴者の距離を縮めたMTV
実は、このアーティストと視聴者の距離を縮めた企画もアメリカMTVが始めたことでした。例えば、当選者を一泊二日でコンサートに招待しバックステージでアーティストに会える… とか。はたまたツアークルーとして1週間働いたり… など、ロックファンには、なかなか画期的かつ魅力的な企画をやっていました。このツアースタッフ企画に至っては、番組がドキュメンタリーとして放送もしています。
またあるライブ企画では、その当選者のクラス全員がコンサートに招待されることもありました。当選者はクラスの人気者になるわけです。それまでの時代、楽屋に立ち入ることができたのは関係者だけでしたが、このMTVをきっかけに大きく変わってきたようです。
この大盤振る舞い企画とて、アーティストサイドがどれだけMTVに対して期待しているか、ということの証明です。レコード会社としてもMTVに対して十分な宣伝予算を投下せざるを得なくなってました。ラジオなどの従来メディアに関してはレコード会社が窓口だったはずですが、このMTVに関しては、アーティストサイドとメディアの直ルートになってました。
レコード会社的にはコントロールが大変ですが、アーティスト&マネージメントサイドからは、やっと現れた自分たちのメディア「MTV万歳」といった歓迎ぶりだったのではないでしょうか。だからこそ、楽屋へ案内するとか、ツアークルーとして体験させるなどのライブの現場企画が成立しています。しかもMTVは24時間放送ですから、いくらでも電波は使えます。お金もあって放送枠もあれば、エキサイティングな番組企画が生まれると言うことです。
全てのアーティストがウェルカムだったわけではない
もっとも、そのMTVと言えどもスタート当初は、全てのアーティストがウェルカムというわけでもなかったのです。私の担当アーティストでは、まずはピンク・フロイド。メンバーのデヴィッド・ギルモアはMTVに対して否定的な立場でした。聴くものにイメージさせることで、その無限の世界観をつくりあげてきた彼らにすれば、音楽を映像で固定することは歓迎すべきことではない、とコメントを残していました。
同じく、アメリカンロックの典型的なヒットパターン、ラジオ&ツアーで大成功したバンドのジャーニーは、アルバム『フロンティアーズ』発売時、“クリップは絶対作らない”、と宣言していたものの、CBSレコードからの説得に負けて、義務的な「セパレイト・ウェイズ」の映像を作っています。
自分の担当アーティストながら、あの映像のチープさには参りました。曲のテーマも何も関係なく倉庫街のカタスミで歌っていましたが、それまでの経緯を知ってるだけに、観ているこちらも微妙な気持ちになりました。彼等は1986年に『RAISED ON RADIO ~ 時を駆けて』というアルバムまで作って暗にアンチMTVの姿勢を出していたが、結果MTVの勢いに身を任せるしかなかったのです。
ポッパーズMTV、ベストヒットUSA… お茶の間に流れるようになった洋楽
MTVの誕生以降、ほとんどの新譜には、必ずビデオクリップが作られるようになりました。それまでもクリップはありましたが、それとて予算がある一部のプライオリティアーティストのみです。このクリップが日本のレコード会社に安定的に供給される、ということでTV側に動きがありました。分かり易い図式ですが、TV局側の論理でいくと、こういうことだと思います。
質の高いビデオクリップが沢山ある。宣伝用なのでタダで使える。DJひとり分のギャラで済む。ラジオの構成家でいい。つまり洋楽番組は制作コストがかからない。深夜なのでレイティングも気にしない。作っちゃえ。
玉石混交でしたが、洋楽が流れる番組が沢山誕生しました。まさにTVがお茶の間に向けて洋楽を沢山流してくれたからこそ、洋楽黄金の80年代がうまれ、洋楽マーケットが拡大したのです。
各主要エリアのローカル局にも洋楽クリップが流れる番組いくつもありました。TBSでも全国ネットで『ポッパーズMTV』が始まり、先行の『ベストヒットUSA』の小林克也さん共々、ピーター・バラカンさんも独特の切り口に人気を博していました。多くの人々に生まれて初めて洋楽を知る機会を作ってくれたのはTVでの洋楽番組でした。
プロモーションでもTVが大事な役回り
宣伝する我々にも少し動きの変化がありました。このクリップの日本到着がいつになるのか、ということは宣伝プランの中でも重要な情報でした。
特にまだ24時間放送はまだ登場してない頃ですし、地上波のTV番組で紹介するということは、1回エアプレイされると、もうその番組では使われないということを意味しています。プロモーション的には、マーケットに油が十分浸った時に、ビデオを回したいものです。音メディアに関しては、ラジオ中心の動きにTVが大事な役回りをすることになってきた、ということも、MTV誕生以降の変化だと思います。
ちなみにこの頃の私のアメリカ出張の際、ホテルのTVでMTVを見ることが、楽しみのひとつになっていました。なにしろ24時間次から次へと流れる映像、それがとても新鮮で刺激的。延々観続けても全然飽きなかったです。CBSスタッフのデスクの上にあったMTVのロゴがはいったステッカーすら大興奮。仲間への土産にMTVグッズを購入するほど、大人気でした。
アメリカの関係者のみならず日本にいた我々にとっても、このMTVの登場はインパクトがあったし、突如現れたメディアのスーパースターに眩しい視線を送っていました。
実際日本で24時間放送のMTVが始まるのは随分後になりますが、アメリカの音楽を日本に持ち込んでくる自分達の仕事です。今回整理してみて、MTVがアメリカでスタートして以降、洋楽の我々が享受してきた恩恵の大きさについて、あらためて認識、MTVに感謝です。
※2019年8月1日に掲載された記事をアップデート
2021.08.01