音楽とファッションの蜜月といえばディケイドごとに特徴的なスタイルがある。
ロストジェネレーション期(20年代)の ジャズとズートスーツ。50年代のエルヴィスとナッソージャケット。パンク期(70年代末)のピストルズとヴィヴィアン。
個人的にはニューロマが最高潮だと感じる。ジャズだからスーツとか、パンクだからガーゼシャツとか、そんな固有の概念さえ吹き飛ばす。正しく百花繚乱、何でもアリだ! 勝手にきやがれ!
そんなニューロマ・ファッションの発祥はナイトクラブ『BLITZ』(赤坂ブリッツではない)。ロンドンのコベントガーデンに位置するこのクラブは元々『デヴィッド・ボウイ・ナイト』を開催していた。
仕掛け人はスティーヴ・ストレンジとラスティ・イーガン。ドアマンはスティーヴ、沢田研二みたいな格好でなければ入店出来なかった。かの、サー・ミック・ジャガーでさえ「あなたはダメ!」と断られた。クロークはボーイ・ジョージ。ニューロマの誕生である。
その影響はバーミンガムにまで飛び火する。ニューロマの王者、デュラン・デュラン。当時、地方の中学生だった僕のクラスでもクラス全員が知っていた。それは女子がたのきんを語るのと同じテンションで語られた。シースルーの下敷きに雑誌『ROCK SHOW』の切り抜きを挟み、それはニューロマ・バンドで埋め尽くされていた。
僕が注目していたのは音楽よりも彼らのファッション。ずっと後になって彼らの衣装の全てを製作していたのがサイモン・ル・ボンの恋人だったジェーン・カーンだと知る。
彼女はバーミンガムに『Kahn & Bell』というニューロマ・ブティックを開いていた。フリルファッションもレザーもどれも素敵だった。この辺りがファッションと音楽の蜜月が最高潮だった頃なのではないかと感じる。
またこんな時代が来て欲しい、こんな時代にしたいとも。ニューロマ来るのか。
所変わって極東、ここにもサイモンとカーンみたいな… いや、グラム時代のボウイと寛斎のような音楽とファッションの蜜月を信じてる “危険なふたり” がいた。
そう、沢田研二&早川タケジ。
セツ・モードセミナー出身の早川氏はGS出身のアイドル歌手を不世出のエンターテイナーに仕立て上げた。ボウイ&寛斎の様なファッションだけの関係に留まらず、アートディレクション全てに早川氏は関わっていた。マルコム・マクラーレンみたいだ。
マルコムがプロデュースしたバンドにアダム&ジ・アンツというジャングルビートを取り入れたバンドがいた。何故か「嗚呼、ニューロマもこの辺が限界だな」って悲しくなった。
だが、ニューロマは終わっていなかった。話は83年、大晦日に飛ぶ。ニューロマの最終到達点をまさか NHK で見ることになるとは…
沢田研二「晴れのちBLUE BOY」
早川氏によって “変態二等兵” と名付けられたこのスタイルは一度見たら忘れられない。中学生が大晦日に見てはいけないモノを見ている。
見てはいけない → でも見たい
ジュリー格好イイ!
母親は大江慎也在籍時のルースターズが TVK で映し出された時と同じく、今にもTVを消しそうだ(苦笑)。しかし、さすがは天下の NHK 紅白!! 母はTVを消すつもりだったが紅白の威光が思い留まらせた。
ニューロマの最終到達点はジュリーの紅白歌合戦だった。
※2017年7月16日に掲載された記事をアップデート
2018.05.10
YouTube / boygeorgeforever82
YouTube / Julie Love
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