1970年代日本のロックシーンに大きな爪痕を残した、カルメン・マキ&ブルース・クリエイション。今回、シンガーであるカルメン・マキとギタリスト竹田和夫が55年ぶりの共演を果たすライブ『55 years 伝説の夜 カルメン・マキ × 竹田和夫 〜Vintage Makes Something New × CREATION〜』が開催される。このライブを前に、カルメン・マキへのインタビューを敢行した後編は、竹田と袂を分ってから結成されたカルメン・マキ&OZの時代、そして近年の活動から竹田との再会のステージに賭ける意気込みまでを語ってもらった。
下積み期間には1日5回のステージ
―― カルメン・マキさんがブルース・クリエイションから離れ、春日博文さんと共にカルメン・マキ&OZを結成したのが1972年です。
カルメン・マキ(以下:マキ):タケちゃん(竹田和夫)から春日を紹介されて、とりあえず2人で一緒にやろうという話になったんです。そこから他のメンバー探しが始まったんです。ベースは最初、ナルチョ(鳴瀬喜博)に話を持っていったんだけど、最終的にフラれました。彼はその後金子マリ&バックスバニーに行くんですが、私より金子マリが良かったんですよ(笑)。もちろん、マリとは今でも仲良しですけれどね。同じくベーシストの川上シゲにも話を持って行きましたが、彼は元ダイナマイツの瀬川洋さんと仲が良くて影響を受けていたから、瀬川さんのバンドに加入したんです。でもその後、OZに戻ってきてくれました。一番苦労したのはドラムですね。本当にいっぱい変わりました。
―― 最初はブルース・クリエイションの樋口晶之さんでしたが、樋口さんはその後、クリエイションに戻り、長谷川康之さんが就きます。長谷川さんも脱退した後、古田宣司(古田たかし)さんになります。
マキ:メジャーでアルバムを出した時は古田くんでした。
―― ライブ活動などはどんな形でやっていたんですか。
マキ:メジャーデビューする前に、下積み期間があったんですよ。渋谷に『ファイブスター』っていうグランドコンパがあって、そこで1日5回のステージをやって始発で帰るとかね。あとはデパートの屋上のビアガーデンです。まだライブハウスなんてない時代でしたから、バンドはそこしかやる場所がなかったの。青空の下で、お立ち台もあって、ゴーゴーガールみたいな女の子が踊っていました(笑)。曲は洋楽のカバーで、クリームとかジョニー・ウィンターなんか演奏していたんだけど、休憩時間になるとゴーゴーガールたちに “あんたたちの演奏じゃ踊れないわよ” って言われたり、客からも “お前らみたいなのはダメだ” とか苦情が来て、店長が "もう少し音を下げろ” とか言ってくるわけですよ。
―― 演奏できる場所がなかったのもありますが、ロックにまだまだ理解のない時代ならではの話です。
マキ:ちなみにその時、ディスコでの対バンが、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドだったの。あの頃って、次のバンドに演奏が変わる時、前のバンドと互いに相談して、1曲、演奏する曲を決めるんです。“今日はサンタナの「ソウル・サクリファイス」にしよう” とか言って。それで前のバンドが演奏しているところへ、次に出るバンドが出てきて、ミュージシャンがひとりひとり交代していくんです。同じ曲を演奏しながら、楽器を持ち替えてスライドしていくんです。気がつくと全員が次のバンドに変わっていく。面白いでしょ?

多くのアーティストにカバーされている名曲「私は風」
―― セット・チェンジならぬミュージシャン・チェンジが起きるんですね。それは観てみたかったです!そんな時期を経て、ファーストアルバム『カルメン・マキ&OZ』が1975年1月にリリースされます。アルバムは今や日本のロックの名盤と呼ばれ、多くのアーティストにカバーされている名曲「私は風」も本作に収録されています。楽曲作りに関しては、どのような形で進めて行ったのでしょうか。
マキ:「私は風」もそうでしたけど、長い曲はパートごとにジャムしながら作っていった感じですね。レコーディングのための合宿もやりましたよ。当時、私はキティに所属していたので、キティ所有の伊豆の別荘で、1週間ぐらいメンバーと共に生活して、曲づくりをしていました。もちろん加治木剛(ダディ竹千代)も一緒に行ってね。
―― 加治木さんは作詞家としてカルメン・マキ&OZのメンバーの1人でしたよね。
マキ:そこで曲のモチーフを断片的に聴きながら、歌詞を作って行った感じだったかなあ……。今思うと曲先が多かったですね。でも「朝の風景」は、私の歌詞が先でした。「私は風」も私の作詞ですが、あれは詞と曲が同時進行的に作られて行った感じですね。

長期にわたってロサンゼルスでレコーディングした「閉ざされた町」
―― セカンドアルバムの『閉ざされた町』はロサンゼルス録音でしたが、相当長い期間滞在していたようですね。
マキ:4ヶ月行っていました。同じ場所に入れ替わり立ち替わりミュージシャンがやってきて、最高で17人になりましたよ。ちょうどその頃、コロナではないけれど、○○風邪みたいなウィルスが流行っていたんですよ。キーボードの川崎雅文は後からロサンゼルスに来たんだと思うけど、彼が最初にかかったのかな、それがきっかけで全員かかっちゃったの(笑)。そんなこともあって滞在が長引いたんですよ。
―― それにしても4ヶ月っていう長期にわたってロサンゼルスでレコーディングしたというのはすごいですね。
マキ:やっぱり、日本ってお金持ちだったのね。今思うと、どうしてあんなにお金があったんだろうと思うぐらいすごいことでした。それにあの頃はロサンゼルス録音が流行りでしたから、キティでも高中(正義)をはじめいろんな人が録音をしていたんです。私たちが4ヶ月間滞在していた時も、金子マリだのジョー山中だのいろんな人が入れ替わり立ち替わりやってきたんです。そんなことができたのも、キティの社長の多賀(英典)さんが “カルメン・マキ&OZの1枚目が売れたおかげ” と言っていました。あれがロックアルバムでは最初のヒットでしたから、それも可能だったんですね。

世界でも稀なバンド、カルメン・マキ&OZ
―― カルメン・マキ&OZは3枚のアルバムを残して1977年に解散します。
マキ:解散の理由はいろいろとありますよ。ずっとやってくれていたマネージャーがアメリカに行ってしまい、バンドとしても限界を感じていたこともあるかな。でもね、今振り返ってみても、OZは奇跡だと思います。女性ボーカルが日本語で歌うロックというだけでも、当時では衝撃的で話題性も高かったのでしょうけれど、何より音楽性がね、唯一無二。あんな音楽やったのはOZしかないと今でも思ってます。世界に通用するとも思ってます。それにしては評価が低いとOZのメンバーみんなそう思ってますよ、口に出さなくとも。
例えば加治木剛の歌詞もすごいよね。「Love Songを唄う前に」だってまだ20歳かそこらの男があんな歌詞を書くなんて驚きでした。「私は風」は共作でしたが、他にも「六月の詩」でも「閉ざされた町」でも、恋人でもないし、深い付き合いでもなかった男が、どうして私のことをそんなに理解していて、あんな歌詞が書けるんだろうと思う。
―― 確かにそうですね。
マキ:「閉ざされた町」の「♪川原の土手にくさった猫が横たわり」や「♪飛ぶのを忘れた極楽鳥が無理に笑う」とか、普通は出てこない歌詞ですよ。個人的には私は 「閉ざされた町」はレッド・ツェッペリンの「カシミール」に似ていると思っているんですよね。コードチェンジしていくところとか、半音の気持ち悪い感じとか、構成もそうだし、普通じゃない曲ですよ。でもそんな風に聴いてくれる人はあまりいなかった。
―― 今でもない曲ですよね。今の若いリスナーが聴いたらぶっ飛んでしまうかも。
上海の街で爆音で流れていた「image song」
―― でも、そんな複雑かつ難解な曲を歌えるマキさんもすごいと思います。
マキ:今では私はロックじゃない音楽もやっているし、音楽を勉強したことがないのに、ずっと音楽を勉強してきた人たちと一緒にやっていて、そこにすごくコンプレックスがあるんです。だけど、OZで歌っている歌は、今だから言えるけど、あれは私以外には誰も歌えないと思ってる。 普通じゃないですから(笑)。
去年(2025年)の5月に、花鳥風月(カルメン・マキとギタリストのFalcon、パーカッショニストの佐藤正治による音楽ユニット)で、上海に行ったんです。そうしたら街中のレコード屋さんから大音量で曲が流れてきて、高音でワーッと声が伸びる、カンツォーネみたいな歌い方で “これ、誰だろう? すごいね” なんて話していたら、OZの「image song」だったの。私が歌ってたんです(笑)。大音量で聴くと、ああ、私、こんなに声が伸びるんだって自分で実感しました。当時は無我夢中で歌っていたけれど、今、客観的に聴いたら、私って凄かったんだなと思いました(笑)。
―― 同じくマキさんが1995年に発表したアルバム『VOICE OF MOSES』に収録されている「いつまでも」という曲、前半はしっとりした三拍子なのに、最後の方は壮大なゴスペル風になっていて、マキさんのボーカルのパワーに驚かされました。
マキ:あの曲、コーラスの後ろの方で私がシャウトしているよね。
浅川マキの歌詞でカバーした「それはスポットライトではない」
―― カバーしている曲も多いですが、「それはスポットライトではない」は、どういうことでカバーされたのでしょうか。
マキ:そりゃいい歌だと思ったからでしょ!他にもそういう歌でカバーしているのはたくさんあるし。 日本語の歌詞は浅川マキさんです。
―― 浅川マキさん自身もカバーしていますね。お2人はほぼ同じ頃に、アングラシーンから登場してきて、名前も同じなので我々の印象に強く残っているのですが、浅川さんとご交流はありましたか。
マキ:はい、浅川さんとはお友達で、とても可愛がってもらいました。浅川さんも天井桟敷にいましたし、寺山修司さんが、私と浅川さんにそれぞれ「かもめ」というタイトルで違う内容の歌詞を書いてくれたんです。でも、私は浅川さんの「かもめ」の方が好きで、今でもよくカバーしていますよ。いい歌だったら誰が歌ってもいいものね。
―― その後、1980年代には “カルメン・マキ&LAFF” や “カルメン・マキ&5X” などの活動を経て、休業期間もあったりと、活動が緩やかな時期もありました。
マキ:パンクもやったしメタルもやったし、いろんなことを少しずつやってはいたけれど、2000年代に入るまでは、全然ダメでしたね。何をやっていたんだろうなあ…… っていう感じはあります。

やっと共演が叶った竹田和夫
―― そして今回、実に55年ぶりに竹田和夫さんと同じステージに立たれるわけですが、何かきっかけがあったのでしょうか。
マキ:その昔、ツアーで地方に行った時、たまたまタケちゃんのバンドが来ていたので観に行ったり、その後も、タケちゃんの帰国コンサートに出かけたり、数年に1回は彼のライブを見ていたんです。それで、3年前に原宿のクロコダイルでのライブを見に行った際、私から “一緒にやらない?” って声をかけたの。その後返事がないからそれっきりになっていたんだけど、今年の5月に札幌でライブをやるという話がきて、やっと共演が叶いました。
―― 竹田和夫さんのクリエイションと、マキさんのVintage Makes Something Newという2つのバンドで共演するという形態になりますね。
マキ:私は形態はどうであれ、一緒にできたらいいなと思っていたんです。最初は私がクリエイションの中に入って歌うのがいいのかな、と思っていたら主催者の要望でこの形になりました。それで当然 “札幌でやるのにどうして東京でやらないの?” という話になりますよね。札幌までわざわざ聞きに行けないものね。でも、来た人はいましたよ(笑)。
若いリスナーにも来て欲しい追加公演
―― 今回の東京公演『55 years 伝説の夜 カルメン・マキ × 竹田和夫 〜Vintage Makes Something New × CREATION〜』は11月6日がSOLD OUTになり、11月12日の追加公演も発表されました。どんなステージになりそうですか。
マキ:お互いに70歳を超えても、ひとつも衰えを見せず、本物のロックをやっています。私が若い頃は、周囲を見ても50代になるとみんな引退して静かに暮らしていたじゃない? ロックをやっている50代、60代なんていませんでした。でも今、周りを見渡すと、50代なんてまだ青いですよ(笑)。60歳以上のミュージシャンがいっぱいいて、70代が一番元気なのよ。でも、ライブには若い人に来てほしいですね。
―― ブルース・クリエイションも、カルメン・マキ&OZも、若い頃には良さがわからなくても、ある程度時が経ってから理解できる、というリスナーも多いと思います。同時に60代、70代で現役でやっているアーティストをリスペクトする若いリスナーも増えています。そういう人たちにこそ、ぜひ来て欲しい思っています。
マキ:ロックまがい、ロックっぽいロックが今巷に溢れてますが、私たちのは本物のロックだから!聴きに来てね。
Live Information
55 years 伝説の夜 カルメン・マキ × 竹田和夫〜Vintage Makes Something New × CREATION〜《追加公演》
▶ 日時:2026.11.12(木)17:00 / 18:00
▶ 会場:I’M A SHOW(アイマショウ)
▶ 出演:Vintage Makes Something New / CREATION
▶ お問合せ:サンライズプロモーション
https://sunrisetokyo.com/detail/35045/▪️ベストアルバム「Good Times,Bad Times ~History of Carmen Maki~」
https://www.universal-music.co.jp/carmen/products/upcy-6830/
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2026.08.05