『クリエイション【竹田和夫インタビュー】② ブルースロックとカルメン・マキとの出会い』からのつづき
ブルース・クリエイションからブラッディ・サーカスへ。イギリスでの武者修行
1969年、日本のロック黎明期に、16歳でブルース・クリエイションを結成。その中心メンバーとして活動し、70年代以降の「ニューロック」を創ってきたミュージシャン・竹田和夫。その音楽人生は、そのままニューロックの歴史でもある。
このたび、クリエイションが過去に発表したアルバムと、竹田のソロアルバム合計11枚が、本人の監修でリマスター、紙ジャケ・高音質SHM-CDでユニバーサルミュージック・ジャパンからリイシューされるにあたり、米国から帰国中の竹田にインタビュー。貴重な話を聞くことができた。今回はその第3弾を公開。
1972年、ブルース・クリエイションでやりたいことはあらかたやり尽くした竹田は、バンドを解散。新たに松本繁(B)、内藤正美(D)と「ブラッディ・サーカス」を結成。このバンドも半年ほどで解散すると、ロンドンへ渡った。―― ブラッディ・サーカスは、どうして結成されたんですか?
竹田和夫(以下、竹田):あれはね、クリームみたいなことをやってみたかったんです。ブルース・クリエイションでできなかったことの清算ですね。トリオロックっていう。
―― 3ピースバンドですね。ブラッディ・サーカスは半年ほどで解散しましたけど、これはもう、やるだけやったということですか?
竹田:そういう感じですね。あと、時代がちょっと変わってきて、日本でも本格的なロックを求める動きが出てきた。それで「イギリスに行きたいな」って思いが強くなってきたんですね。
―― ロンドンには、どなたと行かれたのですか?
竹田:ブラッディ・サーカスを一緒にやって、後にクリエイションのベーシストになる松本繁ですね。彼と2人で行って、しばらく同じアパートに住んで。武者修行ですね。
―― 1972年のロンドンって、どんな雰囲気でしたか?
竹田:当時のロンドンは、ジミ・ヘンドリックスの匂いがする「パープル・ヘイズ」の紫のジャケットを着ている人たちもいて、素晴らしかったですよ。まだ60年代の香りがしていましたね。
―― 60年代後半、「スウィンギン・ロンドン」と呼ばれた時代のちょっと後ですが、まだその残り香があったということですね。ロンドンに行って、竹田さんが感じたことは?
竹田:ロンドンに行って思ったのは、「日本はすごくアメリカナイズされているな」と思いましたね。一方イギリスは、日本と全然違った。いろんなことが日本と違ったから、あらららって。
―― 何が日本と違ったんですか?
竹田:いや、もう見るものすべてが違いましたよ。1階を「first floor」と言わないとか。(註:米国で1階は「first floor」だが、英国では1階を「ground floor」と呼び、2階が「first floor」)。ひと口に「西洋」って言うけど、われわれが知っている西洋はアメリカナイズされた西洋なんだなって実感しました。
―― ロックもそうで、アメリカンロックとUKロックって全然違いますよね? それもやっぱ感じました。
竹田:あ、もうすごく感じましたね、ロックの本場っていうか、生まれたとこですからね。ロックンロールとか、ルーツミュージックはアメリカで生まれたけど、僕らがやっているロックは、やっぱりイギリスで生まれたんだなと実感しました。
―― イギリスには、どのぐらい滞在しようと思っていたんですか?
竹田:いや、あんまり決めていなかったですね、もうちょっと長くいたかったけど。
―― 1972年のうちに日本へ戻って、新バンド「クリエイション」を結成されましたが、バンド名から「ブルース」を外して、もう1回クリエイションをやろう、と思ったのはどうしてだったんですか。
竹田:それは、ロンドンで充電が終わって、「新しいバンドをやりたい」っていう構想ができたわけですよ。じゃあ、名前をどうしよう? と考えたときに、また聞き慣れない名前をつけるよりも、ブルース・クリエイションはそこそこいろんなところで活動をしてきましたからね。今度はブルースバンドじゃないので、「ブルース」を取って、「クリエイション」でいいじゃないって。
クリエイション結成直後、内田裕也がアプローチした理由とは?
1972年、竹田は、日本に戻るとすぐに新バンド「クリエイション」を結成。最初のメンバーは、竹田和夫(G)、松本繁(B)、樋口晶之(D)、大沢博美(Vo)だった。このとき、帰国して間もない竹田に、真っ先に声を掛けてきた人物がいる。内田裕也である。―― クリエイションが結成後、3年ほどレコードを出さなかったのは、ライブ中心でやっていこう、ってことだったのですか?
竹田:これはね、いろんな都合で伸び伸びになったんですね。内田裕也さんと「エイティーン・フィフティーン・ロックンロール・バンド」っていうのを始めたんですけど、裕也さん関連の仕事も結構忙しくなって、レコーディングがどんどん先送りになった、っていう感じです。
―― 裕也さんとは、どんなつながりだったのですか?
竹田:裕也さんとは、ブルース・クリエイションのとき、日比谷野音でやっていたロックフェスティバルによく呼んでもらっていました。フェスのプロデューサー的な感じでしたから。でも、深く関わるようになったのはそのときからですね。
―― 裕也さんは、なぜ結成したばかりのクリエイションに、真っ先にアプローチしてきたんでしょうか?
竹田:それはね、ただ単純に、その頃私たちが着ていた服が違っていたからだと思うんです。当時のロンドンで流行っていた、紫のジャケットを着ていたんで。それまでは、アメリカ南部風のオールマン・ブラザーズみたいな格好をしていました。それが、ロンドンで「ピーコック革命」(註:メンズファッションの革命。男性も色彩を採り入れて美しく着飾ろう、という新潮流)に直接触れて、着ているものも変わっていきましたね。
―― 音楽だけじゃなく、最新のファッションもロンドンから持ち帰ったということですね。
竹田:うん、当時の日本では、ほとんど誰も見たことがなかったでしょうね。ケンジントン・マーケットっていうところに行くと、当時マーキークラブとかに出ていたような向こうのミュージシャンの服が買えたんですよ。で、そういう服を一式まとって日本に戻ってきたら、裕也さんが真っ先に食い付いた。あの人、そういうとこを見ますからね。
―― 当時のファッションで、裕也さんが特に食い付いたのはどの部分ですか?
竹田:まず「靴」ですね。日本でいう「ロンドンブーツ」ってありますよね。あれを日本で最初に履いたのは、実はクリエイションなんですよ。
―― えっ、そうなんですか!?
竹田:そうなんです。違う説も目にしたこともありますけど、あれはわれわれがケンジントン・マーケットで初めて買って、日本に持ち込んだんです。それまで国内では、そんなものは売ってなかったですから。裕也さん、僕らが履いているロンドンブーツを見ると驚いて、「これはいい!」って、音よりも何よりも(笑)。その後1年経たないうちに、日本製のロンドンブーツが出てきて、それでみんなが履きだしたんですけど。
―― ファッションでも、クリエイションは先端を行っていたんですね。
竹田:実は、裕也さんから紹介してもらった最初の仕事が、山本寛斎さんのファッションショーでした。あと、ポートベロっていうイギリスの古着マーケットで、ジャケットみたいな毛皮のコートが安く買えたので、メンバーみんなで着ていました。それも当時日本になくて。裕也さんに「その毛皮のコートと、ロンドンブーツ履いてこい!」って言われて、その格好で裕也さんのバックをやったんですね。そういうヒップなの、裕也さん好きだったから。
―― 寛斎さんのファッションショーでは、どういう形で演奏されたのですか?
竹田:われわれが演奏して、裕也さんが歌うっていう形だったんですが、それを裕也さんが妙に気に入って、その後もう1回やったんですよ。しかも今度は、モデルさんと絡み合うっていうね(笑)。
―― えっ、どういうことですか? 美女に絡まれたら、演奏に集中できないじゃないですか!(笑)
竹田:しかも、そのモデルさんたちも、その後すごく有名になっていった人たちばかりですからね。そんな人たちが、演奏している僕らと絡むんですよ。こっちもまだ20歳ぐらいで若かったから、恥ずかしさもあったし、面白かったな。それ、すごく覚えていますよ。
―― 内田裕也さんって、日本のロック史のいろんな場面で名前が出てくる方ですけど、竹田さんの目から見て、裕也さんがニューロックに果たした役割はなんだと思いますか?
竹田:いや、大きいと思いますよ。裕也さんがいなかったら、今の日本のロックもなかったと思います。裕也さん、60年代半ばに、アメリカのフィルモア・イーストでサイケデリックムーブメントとか、当時のジミ・ヘンドリクスとかを生で観聴きしているんですよ。「欧米では今、とんでもないことになっている」っていうのを現地でいち早く体験して、それを日本に持ち帰って、向こうとの差をなんとか埋めようと尽力した。それがあの人の人生だったので。
―― 世間では晩年のイメージでとらえられていますが、もっと評価されてしかるべき方ですよね。
竹田:そう、成毛滋さんもそういうことをやっていたけれど、裕也さんが日本のロック発展に果たした功績は大きいですよ。
―― その後クリエイションは、1973年にボーカルの大沢さんが抜けて、ギターの飯島義昭さんが新たに加入。竹田さんとツインギター体制になりました。ボーカルは竹田さんが担当して、またバンドの色がちょっと変わったと思うのですが。
竹田:その頃は、後にアルバムに入る曲を作曲していた時期ですけれど、それを試行錯誤しながらライブでプレイしていく、って感じだったかな。
フェリックス・パパラルディとの出会いと全米ツアー
結成から3年後の1975年6月、ファーストアルバム『クリエイション』を内田裕也のプロデュースで発売したクリエイション。収録曲は、ライブで何度も演奏してきた曲が中心になった。そんな彼らに「一緒にやらないか?」と新たな人物が声を掛けた。クリームのプロデュースを手掛け、ハードロック草創期を代表するバンド・マウンテンの中心メンバーでもあった、フェリックス・パパラルディである。 ―― 1976年4月に、セカンドアルバム『クリエイション・ウイズ・フェリックス・パパラルディ』をパパラルディのプロデュースで発表されましたが、彼はプロデュースだけじゃなく、アメリカで一緒にツアーも行っていますよね。パパラルディとは、どういう経緯で一緒にやることになったんですか?
竹田:ファーストアルバムを出す前、クリエイションは、「外タレ」って言われる海外バンドの前座をよくやっていました。で、マウンテンの来日公演の前座をやったときに、フェリックスと仲良くなって、「俺がプロデュースしてやる」という話になったんです。ビッグな人でしたからね、当時。
―― で、アメリカに行ってセカンドアルバムを制作するわけですが、向こうにはどのぐらいいらっしゃったのですか?
レコーディングの前に1ヵ月と、レコーディング中は3ヵ月弱ぐらいですね。彼の家に合宿っていうのかな。そこに泊まって。
―― パパラルディも自らベースを弾いたり、ボーカルを担当したり、プロデューサーというより、ほとんどクリエイションのメンバーになっていましたが、これは自然とそうなったんですか?
竹田:そうですね。最初はプロデュースを頼んだんだけど、向こうに行っている間に話が盛り上がって、「だったら一緒にやろうよ」っていうことになったんです。
―― 非常に珍しい例だと思いますが。
竹田:彼も僕らのことを本当に応援してくれていたし、一緒にツアーができるレベルのバンドが欲しかったのかもしれないですね。寄せ集めのスタジオミュージシャンじゃなくて。
―― 第一線で活躍するパパラルディが「一緒にやろう」と誘ったということは、当時のクリエイションがすでに世界で通用するバンドになっていたってことですよね?
竹田:そうだと思いますよ。いい音を出していたんだと思います。
―― パパラルディとは全米ツアーも行っていますが、観客の反響ってどうでした?
竹田:これ、けっこう大きなツアーでね。われわれがソロでやった公演もありますが、キッスとかピーター・フランプトンとか、ジョニ−・ウィンターとか、そういうビッグな人たちと一緒に回ったりしたんです。そうなると、他のバンド目当てのお客さんも来ている中で、そっちも乗せなきゃいけない、というのはありましたね。向こうのお客さんって、こっちがいいパフォーマンスをすると、必ず拍手や声援が来る。それは演奏していてすごく実感したっていうか、日本のバンドでも、ちゃんと受け入れてもらっていました。いい演奏をすれば、すごく受けていたしね。
―― どんな曲を演っていたのですか?
竹田:フェリックスのマウンテン時代のヒット曲も、必ず2曲は演ってましたね。「ナンタケット・スレイライド」と、「イマジナリー・ウエスタン」(邦題「想像されたウエスタンのテーマ」)。あとは新しい曲、ほとんどセカンドアルバムの曲ですけど、プロモーションも兼ねて。
―― で、帰国して、パパラルディもメンバーとして日本武道館でライブを行いましたけど、日本のロックバンドが単独で武道館公演を行ったのは、クリエイションが最初でした。まさに「凱旋公演」で、竹田さんにとっても非常に感慨深いものがあったのではないですか?
竹田:当時としては、かなり大掛かりな公演でね。よく思うのは、あのコンサートにいた1万人近い人、まさに時代を見ていた人たちって、今どうしてるんだろうなって。今も結構言われるんですよ。「あのとき、武道館で観ました!」って。他のライブもそうだけど、その時、その場にいて同じ空気を吸った同志、っていうところがありますよね。「時代の証人」というか。
―― パパラルディと一緒に活動したことで、竹田さんが得たものはなんですか?
竹田:やっぱり、当時のアメリカの本当のロックシーンっていうのを、彼らのレベルだとスタジアムロックですよね。そういうのをまさに体験できたってことですね。
―― 大観衆を乗せるにはどうしたらいいかっていうことを、直接学べたと。
竹田:そうですね。でも、会場が大きければ大きいほど、音の部分はPAの人に任せることになるし、やっぱり大事なのは演奏ですから。もう誠実に、いい演奏をするってことがまず大前提だと思いますね。
フェリックス・パパラルディとの共演で、海外でも高い評価を得たクリエイション。竹田には作曲の依頼も来るようになった。そのきっかけになったのが、今やプロレスファンの間ですっかりおなじみになった名曲「スピニング・トー・ホールド」だった……(第4回につづく)
特集:Ultimate CREATION
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2023.07.14