2023年 5月10日

クリエイション【竹田和夫インタビュー】② ブルースロックとカルメン・マキとの出会い

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『クリエイション【竹田和夫インタビュー】① その音楽人生は、まさに “日本のロック史”』からのつづき

「ニューロック」を創ってきたミュージシャン・竹田和夫


1969年、16歳でブルース・クリエイションを結成。日本のロック黎明期に、当時まだ誰もやっていなかったブルースバンドの中心メンバーとして活動し、「ニューロック」を創ってきたミュージシャン・竹田和夫。その音楽人生は、そのままニューロックの歴史でもある。

このたび、クリエイションが過去に発表したアルバムと、竹田のソロアルバム合計11枚が、本人の監修でリマスター、紙ジャケ・高音質SHM-CDでユニバーサルミュージック・ジャパンからリイシューされるにあたり、米国から帰国中の竹田にインタビュー。貴重な話を聞くことができた。今回はその第2弾を公開。

「踊れないバンド」と文句を言われながらも、我が道を行く決意を固めた彼らのもとに、思いがけないオファーが届いた。「レコード、出しませんか?」

結成から1年経たずしてレコードデビュー


―― 結成から1年も経たないうちに、ポリドールからレコードデビューの話が舞い込んだそうですが、どなたが声を掛けてくれたんですか?

竹田和夫(以下竹田):それはね、もともとザ・タイガースのディレクターをやっていた松村さんっていう人がいたんですけど、その松村さんが、当時僕たちが所属していた事務所の女性社長に話を持ってきたんです。

ちょうどレッド・ツェッペリンが「グッド・タイムス・バッド・タイムス」のシングルを出して日本でデビューしたところで、ああいう音楽ができるバンドがほしいって。当時の僕らはレッド・ツェッペリンみたいなバンドじゃなかったけど、なんか新しい音楽に思えたんじゃないですか。

―― レコードデビューの話が来たとき、どう思いました?

竹田:いや、いい話だなと思って受けたんですけど、でもバンド作ってすぐですから。実際はもうちょっと練ってからのほうが良かったけど、ま、いい話ですからね。

―― 結成からあまり間もないときにレコーディングとなったわけですが、収録曲はどんなふうに選んだんですか?

竹田:当時の選曲は、ボーカルの布谷(文夫)さんが得意で歌える曲を中心にレコーディングしたんですね。

―― そのときは、オリジナル曲も入れようとか、そういうことはあまり考えていなかったですか?

竹田:うん、もう全然考えてないですね。それよりも覚えなきゃいけないブルースナンバーがいっぱいあって。まずはブルースバンドとしてスタートしたばっかりですから「極めなきゃいけない」って。

―― レパートリーは、当時どのくらいあったんですか?

竹田:その頃はそんなにないですよ。30〜40曲ぐらいだったかな。やれと言われれば、そのときのヒット曲とかなんでもできましたけど、本当に自分たちが聴いてもらいたいブルースっていうのは、20曲もなかったかもしれないですね。

―― それは全部、曲を耳で聴いてコピーしていたんですか?

竹田:全部耳ですね。何度もレコードを聴いて、こうやって弾いているんだろうな、って当たりを付ける感じです。

―― 昔、ベンチャーズの公演に行くと、最前列にギター小僧がズラッと座っていて、みんなメンバーの指を見ている、って話を聞いたことがあるんですけど、そんなこともされたことあります?

竹田:もっと昔、ギターを始めた中学生の頃の話ですけど、GSをジャズ喫茶へ観に行ったときに、コードとかを見ていましたね。結構家が近かったんで、新宿アシベとかよく行っていたんですよ。入場料がすごく安くて、中学生でも行けるような値段だったから。行ってプロの弾くコード見て、「これ、なんてコードだろう?」って研究してね。

―― そうやって観ていた中で、特に印象に残っているギタリストっていますか?

竹田:当時は、石間秀機さんですね(註:フラワー・トラベリン・バンド、トランザムなどで活躍)。石間さんがGSのアウトローズやビーバーズに在籍していた頃から、ずっと見ていましたね。あと、この前一緒にライブをやった、ザ・ゴールデン・カップスのエディ藩さんですかね。あの2人はカッコ良かったですね。

―― その頃に観ていたGSのギタリストで、ほかに憧れたのは?

竹田:あと、いちばん好きだったのが、テンプターズの松崎由治さんですね。あの人は、ギタリストとしては最高でしたね。

初めてのレコーディング、ファーストアルバム「ブルース・クリエイション」リリース


―― で、話をレコードに戻して、1969年10月にファーストアルバム『ブルース・クリエイション』をリリースするわけですけど、すごくスタジオライブっぽい感じがしますよね。これは一発録りに近い感じでレコーディングしたんですか?

竹田:というか、もう完全に一発録りですね。

―― 1969年だと、レコーダーってまだ4chの時代ですよね? じゃあヨーイドンでテープ回して、そのまま出したってことですか?

竹田:ミキサー卓は8chあって、マイクは8本立てられるんですけど、録るのは4chでした。

―― じゃあ、もうオーバーダビングなしで?

竹田:「オーバーダビングは1回できるぞ」って言われて「え? オーバーダビングってなんですか?」って(笑)。「もう1回弾けるんだよ」って言われて、「何弾きましょうか?」「じゃワウでも入れとけ」みたいな。

―― え? じゃレコーディングはそのときがまったく初めてだったんですか?

竹田:初めても初めてですよ。それまでテープレコーダーで演奏を録ったことすらなかった自分たちがいます。

―― ええっ!今までライブしかやったことがなくて、初めてレコーディングというものを経験したとき、どんな感じでしたか?

竹田:いや、だから、チューニングひとつとっても、スタジオのピアノに合わせてみんなでチューニングして、どうなんだって感じですね。

―― あと、観客がいないのって、勝手が違ってやりにくくなかったですか?

竹田:なんか、一所懸命オーディションをやっているような感じでしたね。まるでコンテストのような、過去に苦い経験をした感覚ですね。

―― でもこのファーストアルバムは、ジャケットがすごくカッコいいですよね。



竹田:あれは今思うと、デザイナーさんが一緒だったのかな。なんか似たようなのがありましたね。当時、そういうジャケットデザインの革命とかありましてね。

―― いや、でもこの時代にこのジャケットって、すごいなと思いますし、音も本当にカッコいいですし、いろいろ反響もあったと思うんですけど、自分の演奏がレコードになって出るというのは、どういう心境でした?

竹田:それはそれなりに、すごく嬉しかったですよ。それもね、やりたくないことをやらされたんじゃなくて、やりたいブルースをやって、それがレコードになった。それでデビューできたっていうのは、本当に幸運でしたね。

1971年、セカンドアルバム『悪魔と11人の子供達』を発表


こうして結成1年足らずでレコードデビューを果たし、高い評価を得たブルース・クリエイション。メンバーチェンジを繰り返しながら、1971年にはセカンドアルバムを発表。野外フェスにも積極的に出演し、観客を魅了していった。そして、あの歌手とのコラボも……

―― で、1971年7月にセカンドアルバム『悪魔と11人の子供達』を発表しますよね。このときまたメンバーチェンジがあって、ドラムスが田代信一さんから樋口晶之さんに交代。ボーカルの大沢博美さんが再加入します。



竹田:それは、大沢君が帰ってくる形でね。1969年の元日にブルース・クリエイションを結成して青森に行ったときは、大沢君はいたんですよ。で、いったん辞めてまた戻って来る形で、布谷さんが抜けたんだよね。その2年ぐらいの間に、もうブルースはやりたい放題やったんで、そろそろオリジナルもやっていこうと思って、だんだんハードロックになっていきましたね。

―― たしかに、音がちょっと変わってきていますよね。ハードロック調になったのは、レッド・ツェッペリンとかあの辺の影響ですか?

竹田:ハードロック全般ですね。ツェッペリン自体はそんなに詳しく聴かなかったけど、あとはブラック・サバスとか、ブリティッシュ・ロックですね。初期のディープ・パープルとかの影響も強かったですね。

―― 結成当初のブルース・クリエイションは、シカゴ・ブルースを追求していたと思うんですけど、この辺りからブルース・ロック寄りになっていきましたよね。それはもう、意識して変えていったんですか?

竹田:やっぱりブルースバンドというのは、もう完成された音楽ですからね。それを自分が継承して、その中で表現するっていうのは(ひとつの道として)あると思うんですけど、でも何か新しいものを作りたいと思ったときに、ロックっていうのはそこに自由がある。何やってもいいわけですから。自由があるからそっちに行ったんです。なんかオリジナリティのある、コピーじゃないものをやりたかったんですね。

―― ハードロック系のバンドって、まだこの頃ってそんなに出て来てなかったと思うんですけど、同時期だとどんなバンドがいました?

竹田:その頃よく日比谷野音とかで一緒になっていたのは、フラワー・トラベリン・バンドですね。

―― じゃあ、昔ジャズ喫茶で憧れて観ていた石間秀機さんとも共演されたわけですね。この1971年は、野外ロックフェスが全国各地で盛んに行われていましたけど、調べてみると、どのフェスにも必ずブルース・クリエイションの名前があるんですよね。

竹田:ええ、ほとんど出ていましたね。

―― もちろん実力があってこそですが、それにしても、なんでこんなにお呼びが掛かったんでしょうか?

竹田:たぶん、学生運動をやっていた人たちが、僕たちのサウンドが気に入ったみたいですね。

―― もう呼ばれたら、どこにでも行っていたんですか?

竹田:中津川(フォークジャンボリー)にも行きました。ライブ盤も出ていますけど、熱気がすごかったですよ。あと成田の三里塚(註:成田空港建設反対闘争の中心地)とか、あれも熱かったですね。

―― 結構規模の大きいフェスにいろいろ出ていましたけど、お客さんの反応ってどうだったですか?

竹田:すごく受けていましたよ。やっぱり上手い下手っていうより、エネルギーね。我々が出すエネルギーの量が多ければ多いほど、お客さんも反応してくれるっていうか、そういうことですよ。それは今も変わらないのかもしれない。

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歌謡界の大スター、カルメン・マキと活動を共に


―― その1971年、セカンドアルバムを出したのとほぼ同時期に、カルメン・マキさんとも活動を共にされていますけど、あれはどういう経緯なんですか?

竹田:あれはマキさんがロックをやりたいってことで、どこかで僕らのことを聞いたのかな。確か、ブルース・クリエイションと一緒にやりたい、って言ってくれて始まったんだと思いますよ。

―― その話を聞いてどう思われました?

竹田:いや、面白い話だと思いましたよ。でも当時マキさんは歌謡界の大スターですごくビッグな人でしたから、正直、はじめは半信半疑でした。だって紅白歌合戦に出たような人が、あえてイバラの道を選ぶこともないからね。我々は最初からイバラの道しか歩いてないけど、そこに入りたいというのはいったいどういうつもりなのかな、っていうのもありました。ただ思いがとても強い人だったから…… 今もそうですけどね。だから本気だなって思いました。

―― 初めてマキさんと逢ったときは、どんな話をされたんですか?

竹田:普段はどういう音楽を聴いていて、どんなアーティストが好きかとか、そういう話をしました。マキさんは「とにかく私はロックがやりたい!」って、その一点張り。で、ブルース・クリエイションのサウンドが好きだって言ってくれて、「オリジナル曲を一緒になんかやろうよ」ってことだったかもしれないですね。

―― で、実際にマキさんをボーカルに据えてみて、いかがでした?

竹田:いや、素晴らしいですよ。マキさんはそういうジャンルの音楽は初めてかもしれないけど、最初から順応性があったんだと思う。ある曲でブルーノート、フラット5の音を要求されても、その音がスッと出たのには驚きました。やっぱりそこは持って生まれたものがあるんでしょう。これ、本人には言ったことないですけどね。



―― 4月に竹田さんの原宿クロコダイルライブに伺ったら、マキさんがいらっしゃっていて驚いたんですけど、今でも交流があるんですね?

竹田:今、私はアメリカに住んでいるので、帰国した折にしかお目に掛かれないけれど、マキさんも今ツアーしていて、僕もツアーしていてね。この前も話をしたら、すごく燃えていたんで。今の若い世代にね、われわれが通ってきた時代の空気を伝えたいっていう思いは、共通してありますよ。

―― ということは、竹田さんがマキさんと再び一緒にステージに立つ可能性もあるということですか?

竹田:まあ「またやりたいね」みたいなことは言っているんで。マキさんの現役感あふれるパワーは素晴らしいですよ。

―― いやー、楽しみです。それはぜひ、いつか実現していただきたいですね。でもクリエイションとのコラボがあったからこそ、カルメン・マキ&OZもあったわけですよね。

竹田:そう、僕がブルース・クリエイションを解散してロンドンへ行っちゃったから、マキさんはマキ&OZを作ったんですよね。(註:ブルース・クリエイションのドラムス・樋口晶之は解散後マキ&OZに参加)

1972年、ブルース・クリエイションでやりたいことはあらかたやり尽くした竹田は、バンドを解散し渡英。ロンドンで充電生活に入る。新バンドの構想を描いて帰国した竹田に、真っ先に声を掛けてきたのは「あの人物」だった……

特集:Ultimate CREATION

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