6月21日

UP-BEATが時代に抗い刻み続けたロックの軌跡、北九州から東京へ!

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UP-BEATのメジャーデビューシングル「Kiss...いきなり天国」がリリースされた日
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UP-BEATを育んだ80年代の北九州と小倉のライヴハウス “in and out”


UP-BEATが生まれた街、福岡県北九州市。実は僕も同じ北九州の小倉に生まれ、80年代を過ごしたので、当時 “鉄の街” として栄えた北九州とロックシーンの雰囲気については、肌感覚でわかる部分がある。今回はそうした視点も交えて、UP-BEATが辿った軌跡を追ってみたい。

さて、80年代の北九州、福岡・博多といえば、多くのロックファンが「めんたいロック」というキーワードを思い浮かべるだろう。代表格のひとつ、ルースターズも北九州出身だが、UP-BEATの活動拠点や音楽性を考えると、彼らもまた、めんたいロックの系譜で語られるのは必然と言える。

ボーカルの広石武彦が生まれ育ったのは北九州市の門司で、その地において1981年に “UP-BEAT UNDERGROUND” は結成された。ラモーンズの楽曲とヴェルヴェット・アンダーグラウンドから拝借したバンド名や、当初はラモーンズをコピーしていたことから、広石らが洋楽のロックから強い影響を受けていたのが伺える。当時、北九州で聴ける洋楽ラジオ番組も複数あり、ラジオや手に入れたレコードを通じて様々な洋楽を聴いて育った広石は、自らバンドを始動した。

UP-BEATは北九州の小倉で初ライヴを行い、その後、広石、岩永凡(G)、東川真二(G)、水江慎一郎(B)、嶋田祐一(Ds)という黄金のラインナップが揃って、1984年にバンド名をUP-BEATに改名。メジャーデビューまで頻繁に出演したのが、小倉井筒屋デパート裏手のビルに位置したライヴハウス小倉 “in and out” だった。

ルースターズに同名のインスト曲があるが、実際に彼らも出演しており、80年代の北九州のロック好きなら、誰もが知る伝説のライブハウスだ。かくいう筆者も80年代中期の高校時代に、バンド活動で何度も出演したり、色んなライヴを観に行ったりと、出入りしていた。

個性的で多種多様なジャンルのバンドが凌ぎを削る、群雄割拠の北九州ロックシーンの中でも、UP-BEATは圧倒的な実力で抜きん出ていた。単独ライヴでも動員を伸ばし、博多はもちろんのこと、1985年3月には新宿LOFTでの初ライヴを行い、念願の東京に進出していく。

ちょうどその頃、僕がin and outを訪れたある時、偶然に居合わせた広石の姿を間近で見たことがある。アマチュアバンドのシンガーとは思えぬオーラに、「近い将来、北九州から飛び出していくんだろうな」と、予感めいた何かが頭に浮かんだものだ。

メジャーデビュー! 周囲の期待は “第2のBOØWY”


1985年6月、BOØWYのサードアルバム『BOØWY』が発売されると、北九州にもその旋風は伝播していった。北九州に収まらないポテンシャルと活躍で頭角を現したUP-BEATが、次なるBOØWYを探すレコード会社の目に留まるのは、時期的に必然だったといえよう。

かくしてUP-BEATは、ビクターと契約を結んで活動拠点を東京に移し、1986年5月にメジャーデビューシングル「Kiss...いきなり天国」をリリースした。作詞はめんたいロックの大先輩、柴山俊之、作曲は大沢誉志幸、プロデュースはホッピー神山と外部人脈で固められた。

ソフィスティケイテッドされたキャッチーなメロディが踊るビートロックは、北九州らしさ云々よりも、周囲の思惑が反映された “BOØWYフォロワー” として音楽シーンに送り込まれた印象を受けた。その狙い通り、次なるBOØWYを求めるロックファンの支持を集めていく。

デビュー後は精力的なライヴツアーと有名バンドらとのフェス共演で力をつけ、10月には初のアルバム『IMAGE』をリリース。広石自身による楽曲が大半を占めつつも、先行シングルで印象付けた、メジャーならではの垢抜けた作風が貫かれた。

1987年に入り、初の全国ホールツアーを敢行。その合間には、広石が松田聖子に「チャンスは二度ないのよ」を楽曲提供したり、松本隆監督の映画『微熱少年』に出演したりと活動の幅を広げていく。

7月には先行シングル「Kiss in the Moonlight」をリリース。この先の盟友となる名プロデューサー、佐久間正英とのタッグで作られたメロウでポップなロックナンバーは、TVドラマ『同級生は13歳』のタイアップが実現し、UP-BEATの知名度とファン層の裾野を広げることに繋がった。

デビュー作から10ヶ月の短いスパンで1987年9月にリリースされた2作目『inner ocean』は、代表曲のひとつ「Time Bomb」で軽快に始まる勢いそのままに、疾走感溢れる会心作に仕上がった。デビュー作以上に、躍動感が漲るわかりやすい作風で、キレの良いギターカッティングとタイトなリズムが織りなすビートロックをベースに、広石が紡ぐ甘く切ないメロディが乱舞する、いかにも日本人ウケするロックサウンドが展開された。

思うがままに “憧れのロック” を表現「HERMIT COMPLEX」


さらなるツアーの連続でライヴアクトとしての経験も磨いていくが、レコーディング、ツアー、プロモーションに追われる日々の中で、UP-BEATはこれまで以上に、自分たちの音楽と作品創りにじっくり向き合う選択をした。

1988年10月にリリースされた3作目『HERMIT COMPLEX』発売時のインタビューで、広石は「過去2作はすごく日本的な作品で、そうあることを自分で計算し、周りの日本の音楽状況を考えて作っていた。今回はそれを全く考えずに、僕が憧れていた好きなことをやって、もし受け入れられたらいいし、だめなら仕方ない」などと語っている。

その言葉通り、自らの思いのままに生み出された作品は、再び佐久間をプロデューサーに迎え、UKテイストに溢れた陰影あるメロディやコード進行、一筋縄でいかない捻りまくったソングライティング、アレンジの楽曲を揃えた。一方ではキャッチーを極めた盤石なシングル「Dear Venus」や、雄大な曲調とメッセージ性の高い挑戦的なシングル曲「Blind Age」なども収録され、細部まで丁寧に作り込まれた印象だ。広石のヴォーカルも甘く艶のある妖艶さと表現力を増し、各メンバーのパフォーマンスにも一層磨きがかかった。

バンドブームに向かって、より日本的なロックがもてはやされる時代に、UP-BEATは音楽シーンの流れと逆行するかのように、自らが憧れる洋楽やUKロック志向のサウンドを提示して見せたのだ。結果として『HERMIT COMPLEX』はオリコン7位のヒットを記録し、発売直後の11月には、初となる日本武道館での公演を遂に実現させた。

翌1989年には武道館公演をさらに2回敢行するなど、バンドのスケールは格段に増していく。ツアーを重ねる中で生まれた4作目『UNDER THE SUN』は、引き続き佐久間のプロデュースで同年10月にリリースされた。いよいよ大ブレイクを狙える状況下にも関わらず、より生々しく武骨なロックを凝縮した力作となった。これまで定番だったキャッチーなオープニング曲から打って変わった、ヘヴィで陰影を帯びた「UNDER THE SUN」からして、UP-BEATに求められる予定調和を、敢えて打ち壊したように聴こえる。

それでも、これまでで最高のオリコン4位を獲得したのちに、広石はベストアルバム『HAMMER MUSIC』のミックスのため、遂にアメリカ・ニューヨークを訪れる。バンド結成当時に憧れたラモーンズの本拠地で、広石が自身のルーツへの思いを新たにしたのは想像に難くない。

ほどなくして、広石が目指す方向と一部メンバーによる音楽性の不一致が露呈。90年2月リリースのシングル「Rainy Valentine」と4度目の武道館公演を最後に、北九州時代からの盟友、東川と水江が脱退してしまう。

5人から3人に、自らのルーツを探求する旅路へ


3人体制となったUP-BEATが、次作のレコーディングで訪れたのは、憧れの地、本場イギリス・ロンドンだった。ホッピー神山プロデュースで、1990年5月にリリースされた6作目『Weeds & Flowers』は、ホーンセクションをフィーチャーしたホンキートンクで粋なロックンロールを展開するなど、音楽性に明確な変化が見られ、初期の繊細なビートロックは影を潜めた。全盛のバンドブームに乗っかることもなく、自らのルーツを確認するようにチャレンジした3人の船出は、一定の成功を収めた。

懸念されたライヴもサポートメンバーを迎え精力的にこなし、1991年4月には、今度はロンドンから日本にエンジニアを迎えてレコーディングを敢行。7月に7作目『Big Thrill』としてリリースされた。前作の延長線上にある洋楽志向と日本的なロックを同居させたものの、次第に80年代からのファン離れを招き、セールス面でも以前の勢いを少しずつ失っていく。

それでも3人の創作やライヴへの意欲は削がれることなく、1992年6月には引き続きホッピー神山とのタッグで、8作目『GOLDEN GATE』をリリース。岩永のハードにドライヴするギターを大胆にフィーチャーし、もはや大陸的とも言えるロック風味も導入され、UK的な雰囲気は薄れていった。

音楽性のさらなる変化を示すように、再び渡米してニューヨークでレコーディングを敢行。1993年5月に9作目『Pleasure Pleasure』としてリリースされた。アレンジ面など様々な要素が実験的に盛り込まれた作風だが、バンドの迷走も多少感じてしまう。

そして、翌94年7月には、11作目にして最終作『NAKED』をリリース。もはやハードロック的な色合いの楽曲まで収録されており、個人的には楽しめる作品だが、当時隆盛したビーイング的な要素を投影したようにも聴こえる。

UP-BEATのジャケットは、一貫してメンバーのアー写を中心に構成され、変遷を追うと、その時々のバンドの状態を如実に現しているようで実に興味深い。ここでは広石ただ一人の写真が使われており、バンドの先行きを予感させるようだ。

3人体制後も一貫してクオリティの高い作品を生み出し、この頃まで精力的なライヴ活動を継続したものの、1995年4月には遂に解散を発表。8月30日の渋谷公会堂での公演をもって、メジャーデビューから9年余りの歴史に幕を閉じた。

解散から27年、UP-BEATが再評価される理由とは?


UP-BEATがメジャーで活動したのは、1986年から95年のわずか9年あまり。この頃は、日本のロックファンの多くが洋楽嗜好から次第に脱却し始め、勃発したバンドブームが最高潮に達した。さらにはCDの大量消費時代が到来する中、ロックバンドの多くがJ-POPと一体化していき、バンドブーム自体も衰退していった。そうしたロックバンドにとっての激流の最中に、UP-BEATはメジャーで活動を続けたわけだ。

UP-BEATを振り返るとき、多くのロックファンは「もっと売れるべきバンドだった」と口々に言う。誤解してならないのは、UP-BEATはめんたいロックの系譜で語られるバンドとしては、商業的に異例の成功を手に入れたと言う事実だ。アルバムをチャート上位に何度も送り込み、シングルが出ればTVの有名歌番組に出演し、ロックバンドの大目標である武道館公演を何度も成功させている。

結局のところ、何かと引き合いに出されるBOØWYが収めた空前の成功と、比較されてしまうのが大きいだろう。当時広石のヘアメイク担当が氷室京介と同じで、広石自身はそれくらいしか共通点がないと語ったが、多くのロックファンはバンドイメージや音楽性に共通点を感じたはずだ。

また、UP-BEATに多大な影響を受けたと言うGLAYもまた、ビッグネームへと昇りつめている。GLAYのMVを初めて見たとき、プロデューサーが同じといえど、「まるでUP-BEATみたいなバンドだなぁ」と、不思議な印象を受けた記憶がある。

なぜUP-BEATは、BOØWYやGLAYのように、誰もが知るモンスターバンドになれなかったのか。美形の端正なルックスと恵まれた肢体、群を抜くポップセンスとソングライティング力、そして中音域を活かした甘く妖艶な歌声を持つシンガー、広石のスター性を核とする、UP-BEATの高いポテンシャルをもってすれば、あざとく “売れ線” を狙うのも可能だったはずだ。

それを敢えてしなかったのは、UP-BEATのロックバンドとしての “意地と拘り” だった。ターニングポイントは、日本的なロックを意識した『inner ocean』と方向性を異とする『HERMIT COMPLEX』を作り上げたことであり、さらにその路線を推し進めた『UNDER THE SUN』へと向かった決断にあるだろう。もしあのタイミングで、UP-BEAT自身が売れることを狙い澄ましていたなら、何かが変わっていたかもしれない。けれども、自らが憧れるロックを貫いたからこそ、今、再評価の機運が高まっているのだと思う。

―― 時は流れて2010年、広石は再びUP-BEATの楽曲を歌い始め、北九州でもライヴを行っている。若き日に彼らが演奏した小倉in and outは、残念ながらビルごと解体され跡形もない。それでも北九州から博多、そして東京から全国を駆け巡り、遂にはロンドン、ニューヨークへと音楽の旅路を続けた広石は、誕生の地でのライヴを通じて、自らのアイデンティティーを再確認したはずだ。

「BEAT-UP 〜UP-BEAT Complete Singles〜」の収録曲を順に追えば、UP-BEATが積み重ねた己の音楽への拘りの道程が自然と見えてくる。それは当時の音楽シーンの流れと、微妙にシンクロしないからこそ面白い。バンド史をシングルという側面から克明に記録した本作は、時代を超えて今のロックファンにUP-BEATから届けられた最高のプレゼントになるだろう。

UP-BEATが切り拓いたジャパニーズロックシーンの礎

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2022.04.27
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カタリベ
1968年生まれ
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