男がモテたいと思った時に「そうだ、ゲンスブールになろう!」と短絡的に考える人も多いと思う。
実は僕もその一人でレペットの靴を履き、ジタンを燻らせてみても全くモテないどころか逆効果だった。
それもそのはず、
セルジュ・ゲンスブール。
名前だけでこれ程までに官能的な男がかつていただろうか?
アラン・ドロン?
ジョルジュ・ドン?
ドロンもドンも彫刻の様に美しい事は世界中の誰もが知っている事実で、勿論、官能的か否か? ということになれば官能的であるという分類になるが、果たしてセルジュ・ゲンスブールと同じ部類の官能性かと問われると違うとしか言えない。
この人の事を考えるといつも上記の如く迷宮に迷い込んでしまう。そう、この人は終始一貫して迷宮の様な魔力と官能性を手放さずに生きてきた。
ゲンスブールは、82年に日本の或る雑誌で『人生において重要なものを選ぶとしたら?』というインタビューにこう答えている。
「まず、メイクラブ、次がドリンク、スモーク、書くこと、またメイク…。六番目が死をまつこと。そしてシャルロット。」
セルジュの答えを聞けば、およそ一般的な意味での生活臭のなさ、彼の作品の持つ独特なムードについても理解出来る。
彼の服装はシンプルでブルー系がほとんど。80年代はレノマばかり着ていた。中年となっても脚の細さは全く変わらない。足元はバレエダンサー用のシューズ「レペット」。
ことごとく洗練されている。
ピカソにしてもジョブズにしても服装に同じ特徴があり、それはいつ見ても同じ物を着ているように見えること(実は同じ物を何枚も持っている)。そして才能とセンスがある人がこれを行うと神秘性やカリスマ性が加わる。
この服装術は真似してみたいが僕がやったら着た切り雀、服なし、洗ってるの? と言われる事になるので真似出来ない。
それにセルジュの本業はスタイリストではなく、フランスを代表する作曲家。名だたる有名女優がセルジュに曲の提供を求めた――
80年代初期のセルジュの音楽性はレゲエに向かう。そして84年、傑作アルバム『ラヴ・オン・ザ・ビート(Love on the Beat)』ではアメリカンロックにファンク。
ウイリアム・クラインによるジャケ写は一度見たら忘れられないどころか何度も夢に出てきそうなインパクトがある。還暦を迎えようとする人の扮装とは思えない。
このアルバムでのセルジュは殆ど演奏しない。歌もセルジュが呟くように囁くように詩を朗読しているだけ。それだけで成り立ってしまう所がこの人の魔力のなせる技で詩のない部分は終始 “嗚呼、俺は退屈だ” というメッセージが隠されているような気がした。これが魅力に変わっていく辺りがセルジュ音楽の魔法だと思う。
「ラヴ・オン・ザ・ビート」で始まるライブの登場シーンの動きはショーケンのステージアクションに似ている。さらにシャルロットが蚊の鳴くような声で父とデュエットする「レモン・インセスト」が秀逸。
娘にまで隠喩を使うセルジュの反骨精神は本物で、シャルロットとのデュエットの20年前、フランス・ギャルに提供した「夢みるシャンソン人形」には、もっと過激な内容を刷り込み、それに気づいたフランス・ギャルを引きこもらせることとなる。
フランス・ギャルから始まり、ヴァネッサ・パラディを通過してシャルロットに帰結するフレンチロリータの仕掛人。
趣味なのか?
世界中の男が訊いてみたい質問。
セルジュよ、何故貴方はこんなにも美女にモテるのか? その答えがわかれば俺にもチャンス到来とか思っているが全くわからない。
その答えを突出した才能とセンスという点に見出せば、他にもっと才能とセンスに溢れた人が多数いるので成り立たず、美形かと言われたらドロンやドンには到底及ばない。それでもセルジュ・ゲンスブールは魔法の様な抗う事の出来ないフェロモンを今なお放ち続けている。
きっとそれはセルジュ・ゲンスブールという名前を獲得した時、もしくはボリス・ヴィアンと出会ってクラシック音楽からの脱却を果たした事で官能性を開花させたのではないかと推察する。才能とセンスだけでなく時代や出会いが重要な要素だったと思う。
そして現在、セルジュの官能性の後継者は未だに登場していない。
セルジュ・ゲンスブール。
この名前から放たれる詩的な官能性に、ただ一人拮抗しうる名前を持つ詩人を知っている。
その名は――
アルチュール・ランボー。
2018.03.10
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