2018年6月10日、中野区長選挙が行われた。争点のひとつとして挙げられたのが中野サンプラザの解体をめぐる是非。
結果としては、解体を推進し、2020年から2024年を目途に1万人収容のアリーナ建設計画を打ち出した現職の田中大輔氏が落選。計画見直しを公約に掲げた新人の酒井直人氏が当選した。
サブカルの発信地と呼ばれて久しい中野のシンボル。そして、現在ではアイドルの聖地として親しまれている中野サンプラザ。
中野で生まれ育った僕にとって、そのシンボリックな建物から、数々の音楽的衝動を享受されたのはもちろんだが、幼いころは地下のプールで親父と泳ぎ、同じく地下にあったボーリング場で遊んだ。成人式もこの場所だった。サンプラザが無くなるということは、心の中の大切な思い出が無くなってしまうようで、いたたまれない気持ちだったが、選挙の結果、一縷の望みが残された。
近年、中野駅の北口に続々と大学のキャンパスが集結し、セントラルパークができると、通りをひとつ挟んだブロードウェイや、雑然とした昭和の風情を残す路地裏の飲み屋街とは全く違う顔が出来上がった。街は諸行無常だ。それでも40年以上中野の街を見守ってきたサンプラザは今も以前と変わらぬ存在感を放っている。
都内に暮らし、80年代から音楽に親しんできた僕らにとって中野サンプラザと言えば、渋谷公会堂、新宿の厚生年金会館と共にロックの聖地であった―― 90年代に入ってからは、渋谷の ON-AIR(現在のShibuya O-EAST)や赤坂BLITZ など、中規模のオールスタンディングのコヤがライブのメイン会場になってしまったので行かなくなって久しい。
でも中野区民の僕にとって、中野サンプラザは特別な場所だ。ここでロックの初期衝動を全て享受されたと言っても過言ではない。エントランスの大きな階段を登るときの高揚感は、「ロックの世界にようこそ」と導かれるような感覚。十代の頃は、ドキドキしながらチケットを入場口で差し出したものである。
当時のホールコンサートでは、危険物、カメラ、カセットレコーダーなどの持ち込みの禁止が大々的にインフォメーションされ、ボディチェックも相当厳しかった。パンク系のアーティストを観に行くと、入り口横に置かれたテーブルに鋲つきのリストバンドやカセットレコーダーなどがずらりと並び、僕はそんな光景を脇目に会場入りするのが常であった。
中野サンプラザホールに初めて足を運んだのは、佐野元春『ロックンロール・ナイト・ツアー』最終日。1983年の3月18日、当時中学2年だった。それから、THE MODS、ブラック・キャッツ、ヒルビリー・バップス、PiL(パブリック・イメージ・リミテッド)、スリー・ドッグ・ナイト、ストレイ・キャッツ、ラモーンズなど、会いに行ったロックミュージシャンはジャンルを問わず枚挙にいとまがない。
深夜のラジオから流れるナンバーに胸を熱くした14歳の僕にとって、佐野元春の公演は目の前にある日常の扉を蹴飛ばし、音楽を未来へと繋げる儀式のようなものだった。
パンクに夢中になったハタチの頃、恋焦がれたラモーンズが来日―― 彼らの音楽が、スタイルが、僕のまわりの空気をガラっと変えた。生きることの意味を見出すことができた。ラモーンズのロックンロールを通じて、もうひとりぼっちじゃないと思えた。そんなことを感じさせてくれた男が海の向こうからやってきた。彼らが僕の故郷、サンプラザのステージに立っている。それだけで十分だった。
「ジョイ・トゥ・ザ・ワールド」でお馴染みのスリー・ドック・ナイトの公演のときは、ご婦人のファンの方が多かった。黄色い声援と共に花束を持ちステージに駆け寄っていく様が、演歌歌手のリサイタルのようだなと思いながら観ていたが、それも今では良い思い出だ。
中野サンプラザで僕は数多くのミュージシャンと出逢ってきた。ライブを楽しむという大前提もあったかもしれないが、それだけじゃない。それは矢沢永吉さんの「コンサートは音を聴くだけのとこじゃない。何か気持ちを持って歌ってる男に、会いに行くものなんだ」という言葉に尽きる。
中野サンプラザホールの仰々しくもクラシカルな、あの緞帳が開く瞬間、それは僕にとってロックが始まる瞬間である。
そこに大好きなアーティストが立っているという胸の高鳴りは、今も僕の中で生きている。
2018.06.18
YouTube / motoharusanoSMEJ
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