7月21日

お茶の間ロックって何? ジュリー、シャネルズ、モッズ、チェッカーズに共通点アリ!

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“お茶の間ロック” の定義とは?


先日僕がゲスト出演したRe:minderのラジオ番組『Wave Re:minder - 懐かしむより、超えていけ!』(Bay FM)でも深掘りした「お茶の間ロック」について今回は語っていきたい。つまり、これはお茶の間に似合うロックではなく、テレビの電波に乗せて、効果的に自分たちをアピールしたロックアーティスト、もしくはロックの本質をお茶の間に届けたアーティストという定義だ。

ロックアーティストはテレビに出ない。

―― そんな定説があった80年代。確かにロックアーティストの基本的なスタンスというのは、アルバムをリリースしてツアーを周る。遠回りではあるが、そうやって観客動員を増やしていくというやり方が正攻法だろう。

バンドは長期戦を覚悟というエピックソニーのスタンス


以前、エピックソニーの創始者である丸山茂雄氏にインタビューした時、

「ロックというのは一朝一夕に出来上がるものではない。バンドは長期戦を覚悟でやっていくというスタンスが80年代のエピック黄金期を作った」

―― と仰っていたのが興味深かった。確かにこのスタンスがなければ、日本でロックは市民権を得なかっただろう。

日本のロックの開拓者、矢沢永吉もまた、キャロル解散後にソロデビューを果たした時、近道を選ばずライブに軸足を置いた。年間150本ものステージを組み全国を周った。そしてデビューから約2年の年月を要し初めて武道館のステージに立った。

こういう状況が少しずつ変わっていったのも80年代だったと思う。一過性の流行歌ではなく、アーティストの本質をテレビの電波に乗せる――。なかなか簡単なことではないが、これを効果的にやってのけた数組のアーティストは存在した。

ロックの最先端をお茶の間に持ち込んだ沢田研二の功績


80年代ということでまず、挙げておきたいのが沢田研二の存在だ。タイガース時代より洋楽志向が強かったジュリーがイギリス経由の最新の音楽を積極的に取り入れるようになったのは80年代に入ってから。80年にリリースした「TOKIO」、81年の「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」、82年の「おまえにチェックイン」そして83年の「晴れのちBLUE BOY」。この4枚のシングルには当時のジュリーのスタンスが顕著に表れていた。

特に当時のイギリスで人気を誇っていたバウ・ワウ・ワウやアダム・アントが傾倒していたジャングルビートを全面に打ち出したこの楽曲は、ロックの最先端をお茶の間に持ち込んだ。つまり、イギリスで何が起こっているかをダイレクトにテレビで発信したのだ。最先端の音楽とは? ロックとは? この答えをジュリーは最もわかりやすく発信していたと言えるだろう。



ライブハウスの熱狂をダイレクトにお茶の間に届けたザ・モッズ


ジュリーがイギリスの最先端をテレビから発信したのであれば、80年代のはじめ、まだまだアンダーグラウンドという意識が大きかったライブハウスの熱狂をダイレクトにお茶の間に届けたのがザ・モッズだった。

今でもロックフリークの語り草となっている。日本テレビ系『ザ・トップテン』への出演は衝撃的だった。

当時のザ・モッズといえば、レコードデビューから2年。度重なるツアーで観客動員を増やし、ホールクラスのライブを全国で展開していた時期だった。にもかかわらず、彼らがテレビ出演に敢えて選んだのは、キャパが数百名のライブハウスだった。

場所は彼らがデビュー当時ホームとしていた目黒の鹿鳴館、酸欠寸前の満員のフロアだった。カメラのレンズは熱狂の湯気を映し、ファンの嬌声が響き渡る。そんなライブハウスのダイレクトな凄みを真空パックした映像が夜8時からというゴールデンタイムに放映されザ・モッズの名を全国的に知らしめた。

そして「ライブハウスってこんななんだ!」「すげーな!」と衝撃を受けた十代の若者がバンドを組む。ここから派生した後々のバンドブームなどを考えるとロックバンドの大きな道標になったことは間違いないだろう。ちなみにこの時演奏された「激しい雨が」はスマッシュヒットを記録し、同曲が収録されたアルバム『HANDS UP』はゴールドディスクを獲得。ロックの新世代がここから始まったのだ。



ブラックミュージックに対するリスペクト、黒塗りで登場したシャネルズ


また、時を遡れば80年に顔を黒塗りにしてテレビに登場したシャネルズ(現:ラッツ&スター)のインパクトは相当のものがあった。しかしこれは、彼らのブラックミュージックに対するリスペクトに他ならない。

日本ではまだまだ認知度が低く、彼らが心底愛していたドゥー・ワップという音楽ジャンルをどのように浸透させていくかにシャネルズは専心していた。

そして、ここを基点とした自分たちの音楽スタイルを広めていくために黒塗りの演出は極めて効果的だったと言えるだろう。その結果、デビュー曲の「ランナウェイ」から次々とヒットを連発し、4作目となるシングル「ハリケーン」は当時のアメリカの音楽シーンの重要ポイントとも言えるkクラブ「ウィスキー・ア・ゴーゴー」で初披露された。そして、1983年には大瀧詠一プロデュースで彼らの最高傑作とも言えるアルバム『SOUL VACATION』をリリース。



ザ・モッズもシャネルズも丸山氏のエピックソニー所属のアーティストだった。「バンドは長期戦を覚悟でやっていくというスタンス」を基軸とした実力があったからこそ、テレビ出演の戦略が最も効果的に表れたのは言うまでもない。長期戦で実力を浸透させるというやり方にプラスαとしてテレビ出演があったからこそ、一過性ではないファンを獲得できたのだ。

チェッカーズの魅力を最も効果的に伝えたチェックの衣装


80年代を一世風靡したザ・チェッカーズにしてみても、あのチェックの衣装とオリジナリティ溢れるヘアスタイルが彼らの魅力を最も効果的に伝えられる手段だったと思う。

もちろん本質はそこではなく、彼らの名を世に知らしめた「涙のリクエスト」にしても、アマチュア時代から培ってきたロックンロールやドゥー・ワップを基盤とした音楽性を感じることができた。だからこそ、自らがソングライティングを担うようになってからもヒットを連発できたのだ。

お茶の間ロック―― テレビを効果的に使うというのは簡単なようで非常に難しい。アーティストの本質からあまりにも遠かったり、イロモノ的に扱われたりしたら、プラスどころかマイナスの効果でしかない。だからこそ、戦略的にテレビの演出を利用して、ロックを浸透させていった先人たちの功績はあまりにも大きい。

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2023.06.09
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カタリベ
1968年生まれ
本田隆
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