1983年、なんとかアルバムの発売にこぎつけたものの、契約先のポリスターの環境音楽レーベルが瓦解し、あっという間に路頭に迷ってしまった “GONTITI”……
参考:
『総制作費200万円、すったもんだの「ゴンチチ」レコーディング顛末記』まだその時点では “Gonzalez 三上 & TiTi 松村” でしたが、その後どうなったか。
当時は彼らが所属する渡辺プロ・ノンストップのチーフであり、GONTITI の音楽性を高く買ってくれていた中井猛さんが、EPICソニーの副社長だった丸山茂雄さんと話し、EPIC と契約ができたのでした。原盤権も EPIC に移り、つまり制作費は EPIC負担となったので、1st アルバムのような超節約モードからは脱することができました。
EPIC の担当 A&R は、現在ワーナーミュージック・ジャパンの会長である小林和之くん。今や「くん」づけもなんか妙な感じがしますが(^^)。
昔 “ブラッドショット” というバンドのギタリストとしてアン・ルイスのバックもやっていた小林くんなので、ワタナベ人脈ということで指名されたのだと思いますが、数々のヒットを排出していく小林くんのメジャーなカラーとはかなり違う GONTITI だからか、彼から制作は私に任せると言われました。
ありがたいことなのですが、こうなるとつい調子に乗ってしまうのが私の悪い癖です。2nd アルバム『脇役であるとも知らずに』は、引き続きサウンドプロデュースを “チャクラ” の板倉文に依頼したこともあって、音楽性の追求に少々深入りしてしまったのでした。
佐野元春、The Mods、The Street Sliders、まぁラッツ&スターもいたけれど、“ロックレーベル” を謳っていた EPIC ではかなり異色であり、現場、特に営業(レコード店への販売促進担当)からは「どうやって売ったらいいのかわからない」という声が多かったようです。丸山さんの人間関係で契約したトップダウン案件であったことも(よく “政治案件” なんて言い方をしますが)、現場の士気を損ねていたかもしれません。
“GONTITI” という名称はこの2ndから使ったのですが、これも現場スタッフからの「“Gonzalez 三上 & TiTi 松村” なんて長過ぎるし、プロレスラーみたい。もっととっつきやすい、カッコいい名前考えてよ」という声に押されてのことでした。
三上さん、松村さん、マネージャーの佐脇くんと私が集まって随分考えたのですが、横文字のスマートな言葉とか、どれもこれもシックリ来ないんですね。あきらめて、ともかく短くすればいいかと。まったくカッコよくはないですけどね。
で、結局、売上の方はサッパリでした。当時右肩上がりの絶好調だった EPIC だけに、その不成績はけっこう問題になってしまったようです。発売後しばらく経って、小林くんからは「福ちゃん(私のことです)、GONTITI、次はむずかしいかもよ」なんて、暗いトーンで言われてしまいました。
またしても、風前の灯火となってしまった GONTITI ですが、結果から言うと、次のアルバムからも EPIC で出せて、そこから徐々に上向きになっていきます。ではこの難局をどうやって乗り越えたのか?
続きは次回です。
2018.03.23