自由が丘にオープンしたタレントショップ「フローレス・セイコ」
80年代、一世を風靡したタレントショップブームがあった――
いわゆるオフィシャルグッズ販売から名義貸しのファンシーグッズ、漬物やカレー等々、特に原宿の竹下通りは入口付近から中程までタレントショップが軒を連ね、地方の修学旅行生で毎日ごった返していた。お笑いタレントからアイドルまで、雨後の筍の様に次から次へとタレントショップがオープンしていた。
そんなブームの中、鳴り物入りであえて自由が丘にオープンした路面店のタレントショップがある。それが「フローレス・セイコ」。そう、松田聖子の店だ。当時私は自由が丘の路面店勤務だったため、近辺で松田聖子自身をよく見かけていたが、まさか路面店でアパレルを仕掛けるとはびっくりした。
1988年2月14日のオープン時には、松田聖子自身が来店したため、長蛇の列が出来て入場規制がかかったほど。制服を着た修学旅行生が多い原宿・竹下通りとは異なり、カップルやOLが集まり列を作っていた。
取扱商品はパステルカラーの3色のロゴ入りのトレーナーやエプロン、手鏡など、松田聖子らしいファンシーな品々。もちろん、まるで今のマスク騒動の様に品切れ、品薄を起こし、しばらくの間「フローレス・セイコ」の行列は続いた。
フローレンスではなくフローレス、つまり “完璧な松田聖子”
ところで、店名をよく “フローレンス” と間違える人も多いが、正しくは “フローレス” で、flawless=完璧な、傷一つ無いダイアモンドの等級を意味するらしい。つまり “完璧な聖子” の意味になる。
自身の大ヒット曲「瞳はダイアモンド」にかけたのかどうかは不明だが、後にも先にもこれほど店名に相応しい女性は彼女しかいないだろう。
しかし、アパレルを絡めた芸能人ショップの運営は厳しい。単価は高くなるし、流行り廃りが激しいうえ、サイズ展開のロスもある。そうやって消えていくアパレル系タレントショップの中で、約30年以上も継続して営業し、店名こそ「Feliciaclub by Seiko Matsuda」に変えてはいるものの、リニューアルオープン当日にも500人も行列したという。松田聖子のスター性、ビジネススキルは流石だと改めて思う。
タレントショップの先駆け? アン・ルイスの「ONAGO」
私はフローレス・セイコをはじめ、タレントショップで買い物をしたことが無いが、一度だけ買い物したタレントショップがある。資料が無いのでうろ覚えだが、79年か80年くらいに、アン・ルイスがデザインした「ONAGO(おなご)」と言う店でだ。
アン・ルイスと言えば、キャンディーズの「やさしい悪魔」のステージ衣装のデザインを皮切りに、当時 “派手でお洒落” な代表だったのだが、自らデザインした洋服を売ることはかなり珍しかった。そんなアン・ルイスは、アパレル系タレントショップの先駆者だと言える。
場所は新宿。現在の TSUTAYA になったビルが、鈴屋と言うファッションビルだった時代にオープンした小さなショップだった。
当時学生だった私は母親と買い物に鈴屋に入り、エスカレーターを降りたら眩しいくらい派手なショップが目に入り、そこになんとアン・ルイス本人が立っていた!笑顔で「ハーイ!」と微笑まれ、私は彼女の大ファンだったため緊張しながら接客を受けた。
アン・ルイスこだわりのデザイン、普段着に出来るものは…
お店にあった商品はアン・ルイスがこだわってデザインしたものばかりで、どれも3枚ずつくらいしか在庫が無いと説明してくれた。ディスコ系のサテンやキラキラしたスパンコール物ものが多く、普段着に出来る物は無かった… でも、
「親子? 姉妹みたいで、ママ美人で若い!」
…とアン・ルイスに言われると、母親は謙遜しながら、
「これだけ接客されて何も買わないのは失礼よ!」
…と親子で試着大会になった。
結果、母親はスパンコールが付いたベロアのジャケット、私は豹柄のブラウスにアン・ルイス一押しのショッキングピンクのサテンのハーレムパンツ。3点で会計は7万円くらいで、母親が現金で払った。アン・ルイスは相当嬉しかったのか「やっと分かってくれる人が来た!ロックな服着て、また来てね!」と私達を見送ってくれた。
ロックしたくてね! 歌謡ロックの誕生はブランド消滅がきっかけ?
だが、その後1年足らずで「ONAGO」は無くなった。閉店までの間、何度か豹柄のブラウスを着て店に行ったがアン・ルイスには会えなかった。
結局母親はスパンコール付きのジャケットを持てあまし、私が着ることになった。購入時にアンルイス本人が着ていた同型だ。なお、母親の購入動機は「親友の百恵ちゃんが買いに来た」だった。
「ロックいいよねー。ロックしたくてね。なかなかロックさせてくれないから、デザインだけでも思い切りロックしたいの!」
…と言っていたアン・ルイス。彼女が “元祖・歌謡ロック” として唄い出すのはブランド消滅がきっかけだったのかも知れない。
2020.04.29