日本で見るテレサ・テンのレコードとは雰囲気が違う、鄧麗君「淡淡幽情」
僕がテレサ・テン(鄧麗君)の魅力に気づいたのは、たぶん80年代の後期だったと思う。
彼女が最初に日本で活動していた70年代には、ヒット曲の「空港」くらいは知っていたけれど、まったく関心の外で、せいぜいアグネス・チャンの二番煎じくらいにしか思っていなかった。
その後、旅券法違反で彼女が国外退去になったことや、1984年に再び日本で活躍し始めたこともニュースとして目にしていた。「つぐない」や「時の流れに身をまかせ」なども耳にはしたけれど、当時の僕にとって、テレサ・テンはちょっと色っぽい歌を歌う歌謡曲歌手という認識だった。それでも、少しずつその歌声の美しさには魅力を感じるようになっていった。
テレサ・テンに対する認識が大きく変わったのが、取材で行った香港で買ったレコードを聴いた時だった。それは、たまたま入った場末のレコード店で、どうせなら日本で買えない盤をと物色していた時に見つけたもの。
鄧麗君の『淡淡幽情』、この時には鄧麗君がテレサ・テンだということは分かっていたと思う。けれど、日本で見るテレサ・テンのレコードとはまったく雰囲気が違うジャケットに惹かれたのか、とにかく直観的に「これはいいレコードに違いない」と思って、迷わず手にしていたことを覚えている。この時に、他にも何枚かレコードを買ったはずたけど覚えていない。たぶん探せばあると思うのだけど。
北京語で歌うバラード、香港のレコード・オブ・ザ・イヤーを受賞
それにしても『淡淡幽情』は期待以上の素晴らしいレコードだった。彼女が北京語で歌うバラードは、とろけるような甘やかさと透明感、そして凛とした意志が一体となって迫ってきた。僕は、テレサ・テンが圧倒的な表現力をもった世界屈指の歌手だということを、このレコードで知ったのだ。このアルバムと比べたら、日本語で歌うテレサ・テンは持てる魅力の半分も見せられていないんじゃないかと思った。
『淡淡幽情』のジャケットには中国語しか書いてなかったのですぐにはわからなかったけれど、このアルバムが1983年に香港で発売され、香港のレコード・オブ・ザ・イヤーを受賞したものであること、内容は中国の古典詩に台湾を代表するソングライターたちが曲をつけたコンセプトアルバムだということも知った。そして、このアルバムを出すまでの鄧麗君が過酷な運命に翻弄されていたことも。
1979年に起きた旅券法違反事件も、国際社会で台湾が置かれていた状況の余波として起きたものだったし、彼女の歌があまりに魅力的で影響力のあるものだったために、中国と台湾の政治的駆け引きに利用されていったことも少しずつわかってきた。
グローバルに見ることで感じられるテレサ・テンの多彩な表情
そんな状況で発表された『淡淡幽情』というアルバムには、そうした自らが置かれている混乱を払しょくする意図があったのだということも推測できた。
この時から、僕のテレサ・テン(鄧麗君)への認識がガラリと変わった。同時に、日本だけでなく、台湾、香港などのポップスシーンにも関心が向くようになり、ポップミュージックをドメスティックな視点だけでなく、グローバルにも見ることができるようになった。
その中で、テレサ・テンの歌もいろいろな角度から楽しむことができるようになっていく。洋楽感覚のポップス歌手として活躍した少女時代の歌、歌謡曲の洗礼を受けて背伸びしながらも表現力を増していった日本での活動、そして「何日君再来」「夜来香」などの古典楽曲カバーも含めた中国語の素晴らしい歌たち。さらには英語で歌うアメリカンポップスまで… そのすべてをテレサ・テン(鄧麗君)の多彩な表情のひとつとして受け止められるようになっていったのだ。
42歳の短い生涯、今も輝き続ける艶やかな歌声
個人的な自慢になってしまうけれど、僕は一度だけテレサ・テンにインタビューをしたことがある。彼女はすでに日本を離れて香港に住んでいたと思う。日本語と中国語(通訳つき)で行われたインタビューで、彼女はアジアの全体を視野に入れて、少しでも多くの人に伝える歌を歌っていきたいという想いを語っていた。
正直に言えば、僕はテレサ・テンに会うということだけで舞い上がっていて、その時の様子はあまり覚えていない。けれど、静かで落ち着いた雰囲気を感じさせながらも、その言葉の中にきわめて強い意志を感じたことは印象に残っている。
その後、彼女は中国民主化運動に身を投じ、歌手活動に終止符を打ってパリに移り住んだ後、1995年にタイで死去。42歳の短い生涯だった。しかし、その艶やかな歌声は今も輝きを失わず、僕を魅了し続けている。
※2019年2月5日に掲載された記事をアップデート
2021.01.29