7月3日

公開40周年!映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の神脚本はどうやって生まれたのか?

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デートムービーって、どんな映画?


100%のデートムービーがある。

いわゆる “吊り橋効果”(恐怖や不安のドキドキを、恋愛のドキドキと誤変換するアレ)が期待できるパニックやアクションの要素があり、適度な恋愛描写もあり、ハッピーエンドで読後感のいい映画をそう呼ぶ。これがホラーになると、女子の中には2時間、スクリーンから目をそむけたままのコもいるし、恋愛描写がこじれて二股や三股のストーリーだと、見ている2人が気まずくなる。バッドエンドだと、映画のあとのお茶がお通夜になる。

かつてユーミンが作って、バンバンが歌った「『いちご白書』をもう一度」は、学生時代に授業を抜け出して恋人と2人で行った映画の思い出を綴った名曲だが、実際の『いちご白書』は当時流行りのアメリカン・ニューシネマのバッドエンド・ムービー。デートムービーとしては最悪である。

「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は “伏線・回収好き” にとっての神作品


さて―― 冒頭に挙げた100%のデートムービーが、今回のお題。奇しくも、今からちょうど40年前の今日、1985年7月3日に全米で劇場公開された映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(以下:BTTF)である。

当時、僕は高校3年の受験生だったが、僕のクラスでも彼女とBTTFを見に行くことが流行りに流行った。“過去” という異世界を旅する冒険ものでドキドキするし、ドラマチックな恋愛展開にときめくし、ラストは胸がスカッとするハッピーエンド。これでデート中の2人の仲がこじれるはずがない。

とはいえ―― BTTFを100%のデートムービーとして片づけてしまうのはあまりに惜しい。いわゆる “伏線・回収好き” と呼ばれる、映画やドラマをテーマや作家性でなく、脚本の辻褄で見るのが大好きな人たちにとって、BTTFは “神" とすら崇められる。実際、YouTubeでホイチョイ・プロダクションズの馬場康夫監督が配信している『ホイチョイ的映画生活』でも、元フジテレビで現在、共同テレビの代表取締役社長の石原隆サン(1990年代から2000年代前半のフジの面白いドラマは大体この人の手によるもの)をゲストに招いた際、2人して “人生で一番面白い脚本” と絶賛したのがBTTFだった。

その回の対談で、石原隆サンの印象的な言葉がある――

「人間の感情の中に、美味しいとか、悲しいとか色々ある中で、“辻褄が合った時の喜び” というのも五感の中にある」


BTTFのオマージュ映画「バブルへGO‼ タイムマシンはドラム式」


馬場監督に至っては、BTTFが好きすぎて、オマージュして作った映画が『バブルへGO‼ タイムマシンはドラム式』(2007年公開)である。僕自身、同映画には脚本協力の立場で参加したが、そのプロット作りの楽しかったこと! ホイチョイムービーはデビュー作の『私をスキーに連れてって』(1987年公開)以来、一貫して作家性を排除し、ひたすらエンタメと脚本の面白さを追求してきたが、その姿勢は『バブルへGO‼』でも同様だった。

1つ自慢させてほしい。同映画で僕が出したアイデアの1つに、“バブル時代へタイムスリップした広末涼子演ずる真弓が、未来から来たことを大蔵官僚の下川路(阿部寛)にどう証明するか?”という難題があった。プロット会議でブレーンたちが次々とアイデアを出していく。

「真弓が2007年の新聞を持っているのは?」
「偽物と疑われて終わりだろう」

「競馬の勝ち馬を当てるのは?」
「20代の女の子が1990年の競馬の勝ち馬を知ってると思う?」

その時、僕は閃いた。「そうだ、硬貨はどうです? 彼女の財布には10円玉が入ってて、“平成19年” と刻印されている。しかも、大蔵省なら硬貨が本物であると証明できる」―― 僕のアイデアは採用された。これが、脚本を練る楽しさである。

閑話休題。おっと、肝心のBTTFから話が逸れていた。何故、世の伏線・回収好きの人々がBTTFの脚本に心酔するのか。順を追って、解説していこう。

BTTF原案は1975年、ロバート・ゼメキス&ボブ・ゲイルが着想


BTTFの監督は、後に『フォレスト・ガンプ / 一期一会』も手掛けるロバート・ゼメキス。脚本は彼とボブ・ゲイルが共同で執筆し、製作総指揮はスティーブン・スピルバーグほか2名という座組である。ゼメキスとゲイルは映画人を多数輩出した名門・南カリフォルニア大学の同級生で、親友だった。在学中に2人が手掛けた映画がスピルバーグの目に止まり、以来、何かと目を掛けてもらうような関係になる。

驚くべきことに、BTTFの原案は、公開からさかのぼること10年前の1975年には、大学を卒業したばかりのゼメキスとゲイルによって着想されたという。1975年と言えば、ベトナム戦争が終結した年。それまでアメリカを覆っていたラブ&ピースの空気は雲散霧消し、ハリウッドもアメリカン・ニューシネマが退潮して、スピルバーグが監督した娯楽映画の『ジョーズ』が大ヒットした。BTTFがそんな時代の転換期に産声を上げたのは、決して偶然ではないだろう。

初期のBTTFは、主人公はドクで、それも未来へ行く話だったという。この辺りの経緯は、ニコニコ動画で配信している岡田斗司夫サン(彼も無類のBTTFマニアである)の『岡田斗司夫ゼミ』に詳しいので、お時間のある人はそちらもぜひ。ちなみに、当時の仮タイトルは『ブラウン教授未来へ行く』―― ブラウン教授が後のドクである。とはいえ、このプロットでは脚本化は難しいと2人は考えた。いわゆる “脚本の神” がまだ降りていない―― と。

そうこうするうち、2人はスピルバーグの計らいで、彼の製作総指揮のもと、2本の映画に携わる。『抱きしめたい』(1978年)と『ユーズド・カー』(1980年)である。いずれも監督:ロバート・ゼメキス、脚本:ゼメキス&ボブ・ゲイルという、後のBTTFと同じ座組。だが、この2作は興行的に失敗する。

降りてきた “脚本の神”


失意の日々を送る2人―― そんなある日、2つのアイデアがBTTFへ降臨する。1つは、ボブ・ゲイルが実家へ帰省している時に、たまたま父親の高校時代の卒業アルバムを見つけ、父が生徒会長だったことに驚愕する。もし、自分が過去に戻れたら、このマジメな若い父親と友人になれるだろうか―― と想像した。この時、ゲイルの脳裏に稲妻が落ちた。

「そうだ、タイムマシンを使って未来に行くんじゃない。過去に行くんだ。それも主人公は高校生で、過去に行って、高校生の父親と会うんだ――」

ゲイルは、そのアイデアを早速、相棒に話した。「面白い!」と目を輝かせるゼメキス。そして彼もまた、決定的なアイデアを着想する。

「だったら、高校時代の母親にも会うのはどうだろう。彼女はちょっとおませで、ひょんなことから主人公を好きになり、色仕掛けで迫ってくる。さすがに母親なので、主人公は内心 “ママ、ちょっと待ってよ” って――」

大笑いする2人。そう、この時点でBTTFの神プロットの前半部分が出来上がった。まさに、脚本の神が降りた瞬間である。時に1980年末―― ゼメキスとゲイルは脚本作りに着手し、翌年2月に第一稿を書き上げた。




本来なら―― この時点で、2人は素直にスピルバーグに脚本を見せておけばよかった。実際、彼は以前からBTTFの原案を2人から聞かされ、面白いと好意的な反応を示していた。加えて、この神脚本なら快く出資してくれただろう。しかし、ここで2人に、過去に手掛けた2作がコケた経験が甦る。“今度コケたら、もうハリウッドで映画を撮らせてもらえない”―― 事実、2人がスピルバーグの友情的配慮から映画を撮らせてもらっていることは、ハリウッドでは周知の事実。次もコケたら、もうここにはいられない。

2人は脚本を映画スタジオのコロンビア・ピクチャーズに持ち込んだ。フランク・プライス社長は、ゼメキスとゲイルが手掛けた同社の『ユーズド・カー』を個人的に気に入っており、再び2人と仕事がしたいと望んでいたからだ。彼は脚本の完成に喜ぶ一方、2人にこう注文をつけた。「悪くないね。但し、もっとおバカに振って、お色気シーンも足さないと」

再びBTTFの企画に戻ったロバート・ゼメキス


当時―― 1970年代末から1980年代前半にかけて、世界的な “おバカ青春コメディ” の風が吹き荒れていた。イスラエル映画の『グローイング・アップ』シリーズ(1978年~)をはじめ、フランス映画の『ザ・カンニング IQ=0』(1980年)、ハリウッドでも『ポーキーズ』(1982年)やフィービー・ケイツの『初体験 / リッジモント・ハイ』(1982年)などが人気を博し、BTTFもそのカテゴリーの作品と見られたのだ。

当然、2人はこの改訂案に反発する。結局、双方折り合わず―― BTTFの企画は宙に浮く。事態が動いたのは、それから3年が経過した1984年、ゼメキスが20世紀フォックスからオファーされ、職業監督として撮った『ロマンシング・ストーン 秘宝の谷』(84年)が思わぬスマッシュヒットを放ってからである。ゼメキスはハリウッドでヒット映画を撮れる監督という新たな信頼を得て、再びBTTFの企画に戻ることができた。ゼメキスとゲイルは、今度こそ素直にスピルバーグに相談しようと考えた。

ただ、問題が1つあった。スピルバーグの映画製作会社『アンブリン・エンターテインメント』はユニバーサルと関係が深く、一方、BTTFの脚本は塩漬けされているとはいえ、いまだコロンビアが権利を握っていた。スピルバーグに依頼するには、このもつれた糸を解きほぐさないといけない。

ここで、思わぬ追い風が吹く。かつて2人と仕事をしたい、と欲したフランク・プライスは社内の権力闘争に敗れ、コロンビアを退社して、なんとライバルのユニバーサル・スタジオ(実はコロンビアの前に在籍していた古巣でもある)の重役に転じていた。彼はゼメキスとゲイルが再びBTTFで動いており、スピルバーグと組みたがっているのを知ると、自らコロンビアと交渉して、BTTFの脚本をユニバーサルが譲り受けることに成功する。

かくして―― 監督:ロバート・ゼメキス、脚本:ゼメキス&ボブ・ゲイル、製作総指揮:スティーブン・スピルバーグというBTTFの座組が整った。主題歌はヒューイ・ルイス&ザ・ニュースの「パワー・オブ・ラヴ」である。1984年11月26日、同映画はクランクインの日を迎えた――。



もう、スピルバーグが後ろ盾についているので、フランク・プライスは2人の脚本に注文をつけることはなかった。だが、そこにラスボスが現れる。ユニバーサル社長のシドニー・シャンバーグである。あろうことか、彼はタイトルに注文を付ける。

「このタイトル『バック・トゥ・ザ・フューチャー』では、観客に安っぽくて古臭いSF映画だと思われるだろう。『冥王星からの宇宙飛行士』に改題すべきだ」

ゼメキスとボイルは頭を抱えた。タイトルはこの映画のストーリーの根幹をなす肝である。1955年にタイムスリップしたマーティが、いかにして元の時代―― つまり “未来” へ戻るかが最大の鍵。2人はこのラスボスの怒りを買うことなく、いかにして提案を拒否すべきか頭を抱えた。だが、この難問はスピルバーグによっていとも簡単に解決される。彼は朋友であるシャンバーグ社長に次のようなメモを送った。

「ハイ、シド。君の最高にユーモラスなメモをありがとう。みんな大笑いしたよ。これからもよろしく」

―― 以後、シャンバーグは一切、作品に口を挟まなくなった。

タイムスリップ先は1955年、マイケル・J・フォックスで撮り直しを決行


実は、BTTFが抱える真の難問は、そのタイトル自身にあった。先にも記したように、映画の前半部分のプロット(主人公が高校生の母親にアタックされて困惑する)は、まるで脚本の神が降りてきたように、よくできている。問題は後半―― いかにして未来へ戻るかのアイデアである。

クランクイン時、マーティが未来へ戻る方法は、デロリアンでネバダの核実験場に行き、核爆発のエネルギーを利用してタイムスリップする―― というものだった。だから、タイムスリップ先に “1955年” が選ばれたのだ。アメリカの高校生なら、その年にネバダで核実験が行われたことは誰でも知っている。

だが、実際にそのロケを行うには、100万ドルの費用がかかり、更にスケジュールもひっ迫しており、ゼメキスとボイルは断念する。というのもクランクインから6週間後、マーティ役で撮影していたエリック・ストルツの芝居がどうしてもハネず、ゼメキスとボイルは元々第一候補だったマイケル・J・フォックス(スケジュールが多忙で一度諦めていた)で撮り直すことを決断する。その結果、ギリギリだった予算とスケジュールが更にひっ迫する。

2人に与えられた課題は、オープンセットの “ヒルバレー” を使って、未来へ戻る策を考えよう―― というものだった。頭を抱える2人。ここで、第二の脚本の神が舞い降りる。そう、雷である。

劇中、マーティから1985年のビデオ映像を見せられる1955年のドク。映像の中で、1985年のドクが “タイムスリップに必要な電力は1.21ジゴワットであり、それには核反応が必要だ” と説いている。それを聴いた瞬間、悶絶する1955年のドク。

「1.21ジゴワットだなんて!そんな、そんな強い電気を作れるもんか!」

「あんただけが、頼りなんだよ……」

「気の毒だがな、1.21ジゴワットなどという強い電流を出せるものは、今の時代では 稲妻くらいしかないんだ」

「なんだって?」

「稲妻だよ! しかし、雷はいつ、どこに落ちるか分からんしな」

「それが…… 分かるんだよ」

後に、脚本のボブ・ゲイルは “結果として(当初案より)格段に良くなった" と当時の心境を述べている。



いかがだろう。BTTFが神脚本に至った経緯。ある意味、それは偶然と年月の積み重ねとも。思い返せば1981年―― あの時、ゼメキスとゲイルが素直にスピルバーグに相談していたら、果たして今のBTTFは出来ていただろうか。

1つだけ確かなことがある。

マイケル・J・フォックスが一躍ブレイクしたテレビドラマシリーズ『ファミリータイズ』が始まるのは、1982年9月である。


Updated article:2025/07/03
Previous article:2022/12/07

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2025.07.03
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