国鉄最後の大型キャンペーン「エキゾチック・ジャパン」
郷ひろみの「2億4千万の瞳 -エキゾチック・ジャパン-」は、国鉄最後の大型キャンペーン「エキゾチック・ジャパン」のキャンペーンソングとして1984年2月25日に発売されたものである。しかし、まずはこの曲と直接関係のない人物の紹介から始めさせていただきたい。1968年から1983年まで国鉄の宣伝を担当した電通のプロデューサー、藤岡和賀夫である。
彼は1968年の「ヨンサントオ」ダイヤ改正キャンペーン以降、最大のヒット企画となった「ディスカバー・ジャパン」をはじめ、「1枚のキップから」「東名ハイウェイバス開通」「L特急」「山陽新幹線・岡山開業 “ひかりは西へ”」「青春18キップ」「フルムーン」など、国鉄のさまざまな企画・キャンペーンに携わってきた。
そして生まれた「いい日旅立ち」
藤岡和賀夫は1977年に「南太平洋裸足の旅」という風変わりな企画を立ち上げる。詳細は指南役氏の
『黄金の6年間:ジュディ・オング「魅せられて」シルクロードブームの源流を辿る道…』で触れているので割愛するが、ここで藤岡和賀夫は郷ひろみ、山口百恵らのプロデューサーであるCBS・ソニーの酒井政利と知己を得る。そして1978年、国鉄は新たな全国キャンペーンとして「いい日旅立ち」をスタート、この時、藤岡和賀夫と酒井政利の繋がりによって生まれたキャンペーンソングが、ご存じ山口百恵「いい日旅立ち」である。
藤岡和賀夫は「ディスカバー・ジャパン」以来、国鉄の大型キャンペーンについてはある特定の地域や具体的な事象ではなく、“日本という概念” あるいは “旅という概念” そのものを訴求することを意識している。これは藤岡和賀夫の嗜好ももちろんあるが(有名なゼロックスの「モーレツからビューティフルへ」など、抽象的な訴求が彼は得意だ)、国鉄が公共企業体であるがゆえ、日本全国を平等に訴求しなくてはならないという側面があったのだろう。
つまり、藤岡和賀夫プロデュースによる国鉄のキャンペーンとは “日本人に向けた日本のプロモーション” であった。「いい日旅立ち」の歌詞が「なんとなく日本情緒があって、旅したい気分にさせてくれる」という抽象度の高い仕上がりになっているのは、そういったキャンペーンの特性によるものが大きい。はたして「いい日旅立ち」キャンペーンは1983年まで続行するが、その間にキャンペーンガールの山口百恵は引退し、藤岡和賀夫は国鉄の宣伝担当から降りてしまった(彼は従来型の広告・キャンペーンそのものに限界を感じるようになったという。それは1984年の彼の著書『さよなら、大衆。』に詳しい)。
さて、お色直しをしなくてはならない、ということで生まれたのが国鉄「エキゾチック・ジャパン」キャンペーンであり、郷ひろみ「2億4千万の瞳」である。郷ひろみの起用は、彼がCBSソニー・酒井政利班であったのはもちろん、彼の父が国鉄職員であったことも決め手のひとつであった(東京駅・新橋駅の助役を務めていたという)。と、ここでようやく本題に入ったと思いきや、また少し周辺の話になる。
実は初めてではなかった郷ひろみの国鉄のキャペーンソング
郷ひろみの国鉄のキャンペーンソング、実は「2億4千万の瞳」が初めてではない。1982年6月の東北新幹線開業記念のイメージソング「故郷は僕に微笑む」も郷ひろみが歌唱している。この曲は「女であれ、男であれ」(1982年5月2日発売)のカップリングに収録されており、歌詞は一般公募で宮城県在住の僧侶・早坂文明の歌詞が採用された。
曲調・歌詞は郷ひろみ版「いい日旅立ち」といっていいもので、まさに「なんとなく日本情緒があって、旅したい気分にさせてくれる」1曲であった。しかし「いい日旅立ち」的なコンセプトで旅情をそそる曲は既に時代とはそぐわないようになっていた。次曲「哀愁のカサブランカ」の大ヒットも相まって、いまや「故郷は僕に微笑む」を覚えている人は郷ひろみの熱狂的なファン以外いないだろう。
「いい日旅立ち」的なコンセプトが時代おくれとなった理由、そのきっかけは1978年5月、成田国際空港(当時は新東京国際空港)の開港とみていい。かつて「ディスカバー・ジャパン」のターゲットとなった若い女性(アンノン族と当時は言われた)たちの眼差しは、これ以降海外へと向かう。歌謡曲においても、旅情の舞台は国内から海外へとシフトした。
「カナダからの手紙」平尾昌晃・畑中葉子
「飛んでイスタンブール」庄野真代
「モンテカルロで乾杯」庄野真代
「魅せられて」ジュディ・オング
「異邦人」久保田早紀
「パープルタウン」八神純子
「モンローウォーク」郷ひろみ
「謝肉祭」山口百恵
1978年から1980年までの3年間を拾っただけでも、これだけ海外をテーマとしたヒット曲が連続して発生した(*郷ひろみ・山口百恵・ジュディ・オング・久保田早紀は酒井政利プロデュース)。
エキゾチック・ジャパンは、ディスカバー・ジャパンの発展形
そのような状況下で国内を限定とせざるをえない国鉄のキャンペーンをどうプロデュースするか。この回答が「エキゾチック・ジャパン」というキャッチコピーに濃縮している。つまり ”日本は異国である” ということだ。
欧米のジャパネスクを逆輸入するように、日本人でありながら異邦人の視点で “日本” を味わい、楽しむ。そしてこのテーマは、元々70年代の「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンにもあらかじめ内包されたものでもあった。日本人でありながら “日本を発見する” とは、はたしてどういう意味か。
高度経済成長を遂げ、新しい時代を生きる若い都市生活者にとって “日本らしい" 生活様式や風景は既に失われ、非日常の領域となっていた。そのような都市生活者が、旧街道沿いの宿場町や城下町、港町、寺社町など、近代化が遅れ、高度経済成長から取り残された場所に訪れて、かつての日常であり現在は非日常である「日本」を発見する。それが「ディスカバー・ジャパン」のコンセプトである。
日本に住み、日本人でありながら、わたしたちは “日本” を知らない。だから “日本” を探し、発見する。ならばわたしたちにとって “日本” は、もはや異国といっていいではないか? そう、「ディスカバー・ジャパン」の発展形が「エキゾチック・ジャパン」だろう。これは80年代の中森明菜が、リオのカーニバルやサハラ砂漠を歌ったのと同じ感性で、「DESIRE」「二人静」で “異国としての日本” を歌ったその世界観にも近しい。まさに80年代の空気を読み取ったプロモーション方法と言っていいだろう。
キャンペーンは不発… しかし、郷ひろみ「2億4千万の瞳」は残った
かようにコンセプトはガッチリ決まっていた「エキゾチック・ジャパン」であるが、「ディスカバー・ジャパン」「いい日旅立ち」ほどキャンペーンの成果は得られなかった。そもそも当時、国鉄は分割民営化論争の真っ只中で、1985年には分割民営化に反対する過激派による国電同時多発ゲリラ事件が勃発(犯人として国鉄職員も逮捕された)。つまり組織の存亡に危機に瀕していた当時の国鉄はキャンペーンに注力する余裕など一切なかったのだ。「エキゾチック・ジャパン」キャンペーンは、1987年3月の国鉄分割民営化によりひっそりと終了する。ただ、キャンペーンソングの「2億4千万の瞳」だけは残った。
壺井栄の『二十四の瞳』を1,000万倍したタイトルの景気の良さ、売野雅勇の語感優先で特に意味がない近未来風の世界観に突如ぶっこまれる「男と女とハーフを」に「えっ? そういうことなの?」となる詞、井上大輔の特撮戦隊モノのテーマソング風な煽りまくりなメロディーとサウンド(タイトルや同じく国営タイアップという件も相まって、個人的には、西城秀樹「一万光年の愛」の兄弟作品という印象)、何度も「ジャパーン!!」と絶叫する郷ひろみの威勢の良さ、すべてが高次元融合した、80年代らしい、郷ひろみしか歌えない、能天気極まる、みんなが聴いて楽しい歌って楽しい歌謡曲だ。
その後、JR発足の共同キャンペーンソングとして、原田知世「逢えるかもしれない」(1987年5月2日発売)があるが、ここまでが国鉄とCBS・ソニー酒井政利チームの仕事。以降は、JR各社が独自でキャンペーンを行うが、京都・東北・しまなみ海道など、各社がそれぞれ担当する地域を意識したディスティネーション・キャンペーンが中心となり、かつての国鉄のように “日本” を概念をとらえ、日本全体をキャンペーン対象とするプロモーション活動は、その意味がなくなったのか、ほぼない。
唯一それに近しいものとして存在するのが、東海道新幹線・品川駅の開業記念キャンペーンとしてJR東海が実施した「AMBITIOUS JAPAN!」になるだろうか。“新しい鉄道唱歌” のコンセプトで作られた同名キャンペーンソングは、TOKIOの歌唱で2003年10月1日に発売し、オリコン1位を獲得。この曲は、ビジネスマンの大動脈たる東海道新幹線のテーマという初期コンセプトを超えて、日本で働くすべての人への応援歌として多くの人の心に刺さった。キャンペーン自体も3ヶ月の予定だったところ好評に伴い2005年9月の愛・地球博の終了まで延長している。
※2021年10月18日に掲載された記事をアップデート
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2024.02.25