新御三家ですら回避不能!? 歌謡曲不遇の時代とはなにか?
以前のコラム『歌謡曲不遇の時代を生き抜いた実力派シンガー、岩崎宏美の苦闘』で、80年代は歌謡曲不遇の時代を迎えたなどと書いたが、同時にその要因はニューミュージックの台頭にもあるということについて触れた。
ニューミュージックって何? というなら、それは反体制の象徴だったフォークやロックに対して、その制作スタイルを踏襲しながら時代性を取り込んだ新しい音楽群をジャンルを区別せずに称したものである。
そして主にその担い手になったのは自ら楽曲を制作し唄う、シンガーソングライターと呼ばれるミュージシャンたちである。
しかし、一方で旧来の「歌謡曲」へのアンチテーゼとして、彼らのパフォーマンスを「ニューミュージック」として定義付ける見方もあり、実は一般的にはこちらの方が明解で納得しやすく、大いなる誤解をもって受け容れられたように思う。いうなればミュージシャン達の楽曲こそ “新しく”、専業シンガーの歌謡は “古い” というわけだから、これは流行歌手たちとしては存亡に関わる大問題である。
野口五郎、西城秀樹、郷ひろみの3人は新御三家(※)と称され、70年代歌謡の象徴的存在であった。彼らはエンターテイナーとして後進に多大な影響を与え、周囲から一目置かれる存在であったが、業界内の地位と市場からの評価は必ずしも一致しない。彼らにとっては、まさに受難の時代到来であったろう。
歌手の枠にとらわれずキャリアを研鑽した野口五郎
野口五郎は3人の中ではデビューも早く、歌手としてはじめに成功していたように思う。またギタリストとしても知られ、ミュージシャンとしての側面は、プロデューサーとしての活躍など、後年の彼のキャリアを支えている。
だがあえて個人的な印象を述べるなら、80年代の “ゴロー” のイメージはバラエティタレントであった。早くに歌手としての地位を築いた彼の全盛期を我々の世代は体感していない。
「♪ ふーたりなら、火遊びといわれてい~い~ 」(オレンジの雨)なんて歌詞は小学3年には理解できるはずがない。ゆえに彼は『カックラキン大放送』でギャグをかましたり『元気が出るテレビ』で優しいコメントを発するお兄さんだったり、たまにドラマで客演する役者さんでしかなかった。
テレビの歌番組もセールス至上主義に傾倒し、ランキング形式が主流となると、唄うシーンを目にする機会も徐々に減っていった。最直近のトップ10ヒット「19:00の街」は1983年の発売である。
貪欲に音楽を吸収して大きく飛躍した西城秀樹
西城秀樹の全盛期は、もう少し後にやって来た。頂点は70年代の末期、1979年を代表するヒット「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」である。
少し前までピコ太郎が携帯電話の CM で替え歌で歌っていたことを考えると、その影響力はまさに絶大である。派手なアクションとパフォーマンスでファンの支持を集めた “ヒデキ” は、これを機に大人のシンガーへの脱皮を図るようになっていく。カギはニューミュージックと洋楽のカバーにあった。
彼の80年代はスティーヴィー・ワンダー「愛の園」とオフコース「眠れぬ夜」のカバーで幕を明けた。ロック色が強いパフォーマンスはニューミュージックの時代にも受容性が高かったから、楽曲さえ時代に寄り添えれば、ファンの支持を得られたともいえるだろう。
かの代表曲「ギャランドゥ」(1983年)は、もんたよしのりの作品。「抱きしめてジルバ」(1984年)の原曲はいうまでもないワムの「ケアレス・ウィスパー」である。また洋楽カバーは海外進出への布石という役割も果たした。ヒデキはアジアへ活躍の場を求め、大いなる飛躍を果たしたのだ。
大人のアイドルとして歌謡曲の王道を走った郷ひろみ
郷ひろみはどうだろう。とにかく彼の人気の源は、歌い手としてのパフォーマンスよりも、そのルックスによるアイドル的なものであった。彼のキャリアがジャニーズ事務所からスタートしたということを忘れてはいけない。間違いなく彼ら3人の中では、最も難しいイメージチェンジを強いられたに違いない。
「セクシー・ユー」(1980年)は南佳孝「モンロー・ウォーク」のカバー、「哀愁のカサブランカ」「悲しみの黒い瞳」(1982年)は洋楽カバーで、いずれもヒデキと同様の試みが為されてきたことは明らかだ。
そして彼が大人の男としての片鱗を見せ始めた時、ようやくピークがやって来る。「How many いい顔」「お嫁サンバ」そして「2億4千万の瞳」など、今も歌い継がれる代表曲の数々は、80年代になって逆風をものともせず生みだされた、歌謡曲の王道を行くヒット曲である。
西城秀樹と郷ひろみの競作「ケアレス・ウィスパー」
彼らの模索は時としてハプニングを生じさせる。それが図らずも同曲のカバー西城秀樹「抱きしめてジルバ」と郷ひろみ「ケアレス・ウィスパー」の競作である。
発売は西城 “ジルバ” が約1ヶ月先行し、郷 “ウィスパー” があとを追う形でリリース。新曲のプロモートでフジテレビ『夜のヒットスタジオ』に出演する郷に呼応する形で西城が番組側のオファーを受け、前代未聞の競演が実現したという。
さてセールスはというと、西城 “ジルバ” がやや上回ることとなったが、そこで勝ち負けを論じるのは野暮である。
郷 “ウィスパー” は果敢にも郷自身が訳詞を手掛けた労作で、完璧にパフォーマーに徹しようとしたヒデキと、よりクリエイターであろうとしたヒロミの競演は、違う方向性を模索していた二人が、たまたま同じ楽曲で交錯したという、出会いがしらの事故のようなものだった。
新御三家が手探りでくぐり抜けた80年代
80年代後半にかけて彼らの後を担ったのは田原俊彦、近藤真彦、野村義男の “たのきんトリオ” である。アイドル顔の田原、やんちゃな近藤、ギタリストの野村のキャラ構成は、まんま郷、西城、野口にあてはまる。『カックラキン大放送』の出演もやがて彼らのものとなり、郷の休養宣言とともに新御三家の時代は一段落付いたように思えた。
だがその後、3人のうちメディアでの露出量で他の2人を圧倒しているのは、間違いなく郷ひろみである。80年代の試行錯誤の中でマネージメントを一新し、西城は1983年、野口は1986年に独立を果たす。現在まで大手プロダクションに所属しているのはただ一人、郷だけである。
この活躍をマネージメントの違いだけで片付けたくはない。最もイメージチェンジに苦労した上に、トップアイドルとの恋愛騒動、常に話題となる婚姻や私生活…。芸能人として郷がくぐり抜けてきた修羅場の数は他の2人の比ではない。長く一線で活躍し続けるだけでも一つの偉業といえないだろうか。
残念ながら2018年5月、新御三家の一人、西城秀樹は、長い闘病生活の末にその生涯を終えた。3人が共にステージに並び立つ姿を見る機会はもう二度と訪れない。だが感受性が研ぎ澄まされていたあの頃、心に刻み込まれた楽曲は、決して色あせない。歌詞を見ずとも、そらで唄える歌が一体今どれだけあるだろう。懐メロというと演歌や戦後歌謡を指して使われるけれど、我々にとっては、まさに彼らが輝いていた時代の音楽こそがそれなのである。
※カタリベ注:
「新御三家」以前に御三家と呼ばれていたのは橋幸夫、西郷輝彦、舟木一夫。
※2017年6月5日に掲載された記事をアップデート
2019.11.10