ドイツ・ミュージシャン、これがベストイレヴン!
2022年は4年に一度のワールドカップイヤー。Jリーグが発足した1990年代以降、日本でもワールドカップの盛り上がりは回を追う毎に大きくなってきている感を抱くが…。今回も参加するすべての国が、高次元の戦いをもってして我々を楽しませてくれるに違いない。
毎回優勝候補として挙げられる国というのは、なんとなく常連が決まっているように感じるが、欧州勢の中では日本と国民性が近いと言われるドイツが常に俎上にのっているようだ。世界の大衆音楽のヒット構図に当てはめてみれば、英語圏であるアメリカ、イギリスを除いた非英語圏からは、やはりドイツが頭ひとつ抜きんでて健闘しているように見える。
きちんとヒットチャートへのエントリーを統計的に集計したわけではないが、ロックンロール誕生以降のロック・エラにおける非英語圏アーティストの中では、イタリア、フランス、スペイン等よりもドイツのアーティストを数多く思い浮かべるのではないだろうか。テクノ、メタル、ディスコ… ドイツで盛んになったジャンルのアーティストのひとつやふたつ、皆さんも瞬時に思い描けるのでは。うん、思い描くに違いない。
―― ということで2022年ワールドカップ記念、世界で活躍したドイツ・アーティスト11選をお送りいたしましょう。サッカーにちなんでイレブン選出。ロック・エラ以降、特に1970~1980年代を中心に、世界で名を轟かせたアーティスト、一発ヒットだろうがドイツ以外の国のヒットパレードに共有感高いヒットを持つアーティスト、日本において根強く高い知名度をキープしているアーティスト… それらを総合してドイツのベストイレブンを選出してみた。
ドイツ国内ではビッグネームながら国外での目立ったヒットがなかったり、ポップスとは対極的な偏ったジャンルに特化したようなアーティストは除外しているので、ご了承ください。あくまでも私選イレブンなので、あのグループが選ばれていない、あのシンガーが入ってないというクレーム(?)は受け付けないのであしからず。それではいってみましょう!
ヒューバート・カー Hubert Kah
栄えあるキックオフを飾るのは、主に1980年代に人気を博したグループ、ヒューバート・カー。懐かしい! そんなアーティストいたなあ、なんて声をあげているのは確実にオーバー50歳でしょうか。ニューウェーブを出自とした第2次ブリティッシュ・インベイジョンの波の中から台頭してきただけに(1982年デビュー)、イギリスのアーティストと思い込んでいた人は少なからずいたようだ。
イケメン、ヒューバート・ケムラーを中心とした、いかにも80sエレポップ風情ないでたちを見れば、まあそれも無理はないのか。残念ながら万人が知る決定的なワールドワイド・ヒットはないが、同時期に(1983年)デヴィッド・ボウイ「スペース・オディティ」へのアンサーソングが世界的一発ヒットとなった「メイジャー・トム」を残すピーター・シリングよりは、少しだけ共有感が高いのではないだろうか。
タコ Taco
1980年代エレポップの代表的ワールドワイドヒットとなった「踊るリッツの夜(Puttin’ On The Ritz)」! 第2次ブリティッシュ・インベイジョン最盛期となった1983年、デュラン・デュランやカルチャー・クラブ等並みいる英国勢に混じって、ビルボードのシングルチャートHOT100にて最高位4位を記録、日本を含む世界の若者に強烈な印象を残した1曲だ。1920年代に書かれ同名映画に使用された楽曲(フレッド・アステア等が録音!)を、レトロ感はそのままにエレポップ風に料理したもの。低音の効いたタコの歌声も相まって、実に不思議で魅力的なヒットソングだった。オランダの両親から生まれ、インドネシアで育ち、ドイツを基盤に音楽活動していたタコ。しかし、この曲はドイツではトップ10入りをしていない。
モダン・トーキング Modern Talking
最盛期はヒューバート・カーとほぼ同時期の1980年代、ドイツ出身の男性デュオとしては世界で最も成功したグループといわれる。ドイツ版 “ワム!” かと見えなくもない美男子2人組で、ヒューバート・カーよりは “黄色い歓声” 度は高く、(ドイツ出身らしく)ダンスミュージック度数も高い。
実際ワム! を意識していた節はPV等を見ればうかがえるが、ワム! よりはヨーロッパ的な “貴公子感” が強いのか。1980年代にリリースしたシングルはほぼすべて本国ドイツでは上位にチャートインしたが、欧州以外特にアメリカではまったくヒットしなかったことが、どうしてもB級感のイメージを与えてしまうのは否めない。
日本では「愛はロマネスク(You’re My Heart, You’re My Soul)」(1984年)がディスコにおけるフロアヒットとなり、日本人による日本語カバーがリリースされていた。
ジンギスカン Genghiskhan(Dschinghis Khan)
やはり日本においてはこのグループを外さないわけにはいかない。ドイツのアーティスト作品の中で、日本の老若男女に最も認知されているであろう特大メガヒット「ジンギスカン(Dschinghis Khan)」(1979年)を残したグループなのだから。
ディスコブームのピーク年となった1979年の最大フロアヒットであるが、そのヒット規模があまりにも爆発的だったということもあり、後の竹の子族や、ダンス、運動に合わせる音楽を必要とする場面やテレビCM等…、いわゆる王道洋楽を伝えるメディアとは違った文脈で確実にかつ脈々と聴き継がれ、歌い継がれてきた作品といえよう。
要は通常の洋楽ファンとは別次元の層から長く厚く支持されてきた作品ということだ。ミュンヘンディスコの立役者の筆頭株であるボニーMレパートリーを換骨奪胎したような「ジンギスカン」は、一連のミュンヘンディスコ作品同様、長い間再評価とは無縁の存在ではあったが、昨今のブギーディスコブーム潮流にのって、少しずつ再脚光を浴びつつある兆しが見えるのは興味深い。
スウィートボックス Sweetbox
CDバブルとなった1990年代、USヒットとはほぼ関係ないところで日本独自のヒットとなった作品が少なからず存在した。シャンプーやミー&マイ等と並んで、その代表的アーティストのひとつがスウィートボックスだ。
ドイツ人プロデューサー、ゲオを中心とした音楽プロジェクトがスウィートボックスで、1995年以降その時代ごとにリード女性シンガーを立てて作品を残している。
日本におけるスウィートボックスの最大ヒットは、とにもかくにも「エヴリシングス・ゴナ・ビー・オーライト(Everything’s Gonna Be Alright)」(1997年)につきる。バッハ(クラシックの3大“B”―― バッハ、ブラームス、ベートーベンは全員ドイツ人だ!)の「G線上のアリア」を巧みに採り入れたUSマナーに限りなく近い “技あり” な90年代ヒップホップ作品。日本では50万超のアルバムセールスを記録した。
スコーピオンズ Scorpions
ロック・エラ以降の世界の大衆音楽の発展期(1950年代〜1980年代)において、ドイツが世に提示したプログレッシヴなジャンルといえば、テクノ(トランス)、ミュンヘンディスコ、そしてジャーマンメタルだ。英米を中心に勃発したハードロック〜ヘヴィメタルのムーヴメントにおいて、黎明期から成熟期にかけてその一角を担ったジャーマンメタルの雄は誰かと問われれば、それはもうスコーピオンズ以外の何物でもない。
1960年代から活動を開始、特に1970年代から1980年代にかけてハードロック〜ヘヴィメタルシーンに一石を投じる名作を多く輩出している。ジャケットのアートワークを含め物議を醸しだした『ヴァージン・キラー』(1976年)、「ロック・ユー・ライク・ア・ハリケーン」収録の『ラヴ・アット・ファースト・スティング』(1984年)、最大ヒット「ウィンド・オブ・チェンジ」収録の『クレイジー・ワールド』(1990年)あたりが、ハードロック・ファンのみならず一般層にも知られたアルバム。後のUFO〜MSG(マイケル・シェンカー・グループ)のギタリスト、マイケル・シェンカー(スコーピオンズのルドルフ・シェンカーの弟)が一時期在籍していた。
カン Can
プログレッシヴロックがその役割を果たしていたのは1960年代後半から1970年代にかけて。プログレの中心はもちろん英国ではあるが、イギリス以外の各国からもそういったアプローチのロックバンドは出現していた。さしずめドイツ代表のプログレグループならば、カンということになるのだろう。
主な活動期間(1968~1970年代)が、ほぼプログレ隆盛期と重なっていたというのもあるが、いわゆる環境音楽の第一人者的立ち位置を確立したような、枠に収まらない多種多様な音楽を実験的に体現していたのは、実にプログレバンドだった。同時期のタンジェリン・ドリームやファウスト、後のラムシュタインに至るまでのドイツを代表するロックバンドへの影響、切磋琢磨感が、間接的に聴く者の心に響く。奇才ホルガー・シューカイが在籍。
ネーナ Nena
ヒューバート・カーやモダン・トーキングがニューウェーブ経由の80年代エレポップ文脈の中で存在感を示していたとすれば、もっと広い土俵~アメリカを含めた大衆音楽のメインストリームたる80年代洋楽の中で最も大きな存在感を示したドイツ作品ならば、ネーナ「ロックバルーンは99(99 Luftballons)」(1983年)の右に出るものはない。
いわばシンディ・ローパー「ガールズ・ジャスト・ウォント・トゥ・ハヴ・ファン」やa-ha「テイク・オン・ミー」にも遜色ない、限りなく共有感100%に近い作品こそが「ロックバルーンは99」。楽曲単位でいえば、究極の一発ヒットという意味合いで口の端にのる頻度含め、最大の認知度を誇るドイツアーティストによるヒットソングではないだろうか。
ドイツの女性は脇の毛を処理しない―― という(誤った)潜在意識を日本男児に植え付けた罪も内包している。
ボニーM Boney M
日本で絶大なる人気を誇ったドイツ基盤の70年代ディスコアーティストといえば、ボニーM、アラベスク、ジンギスカンこそが3大グループとして挙げられるが、日欧での長期人気、ヒットソングの多さではボニーMが突出した存在だったことは間違いない。
驚くほどアメリカでヒットしなかった(トップ40ヒットは「バビロンの河」のみ)ボニーMだったが、ポストディスコ期における特に欧州ダンスミュージックシーンへの影響力たるや、それはもう絶大なるものがあったと言えよう。
全体に漂うB級感ゆえか、20世紀中の再評価は一切なかったが、21世紀のブギーディスコ・ムーヴメントにのった世界的な再評価の波は、ジンギスカンの比ではない。
クラフトワーク Kraftwerk
世界の一般層に「大衆音楽に最も影響を与えたドイツ・アーティストは?」と問いかけたならば、大半がクラフトワークと答えるのではないだろうか。
クラフトワークといえばテクノ・ミュージック。テクノ・ミュージックといえばニューウェーブ〜80年代エレポップに多大なる影響を与えた―― というイメージが根強く植え付けられているようだ。
テクノ黎明期の「アウトバーン」(1975年米「HOT100」にて最高位25位!)、フロアでの機能性までをも見据えた「トランス・ヨーロッパ・エクスプレス」(1978年同67位)は、実に印象的かつ鮮烈なヒットシングルだった。初期エレクトロヒップホップの名曲、アフリカ・バンバアタ&ソウル・ソニック・フォース「プラネット・ロック」(1982年)に「トランス・ヨーロッパ・エクスプレス」がサンプリングされたのには、世界が度肝を抜かれた。
ニナ・ハーゲン Nina Hagen
1970年代以降世界の音楽シーンにトピックスを提供していた1980年代までの間、ドイツという国をレペゼン(象徴)していたシンガーは、間違いなくニナ・ハーゲンだった。奇抜なルックス先行という側面はあったものの、人心を納得させるポジティヴなパンク精神は真摯に伝播してきたものだ。
2020年代に入ってニナ・ハーゲンが20世紀の時以上にスポットライトを浴びることになろうとは…。すなわちメルケル元首相の退任式(2021年12月)において、見送り曲にニナの「カラー・フィルムを忘れたのね」(1974年)を選んだのだ!
ほぼ同世代、同じ女性、旧東ドイツ出身、共通項の多い二人だったからこそ「この曲は青春のハイライトだった」という素敵なコメントが生まれている。一国の首相経験者が自国の大衆音楽アーティストについて感動的に言及する… なんだか色んな意味で羨ましさを覚えてしまった。
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2022.11.20