7月3日

まさにアメリカンドリーム、ジャーニー「フロンティアーズ」全米ツアー同行記!

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ジャーニーが「フロンティアーズ・ツアー」をヒューストンで開催した日
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ジャーニー「フロンティアーズ」全米ツアー


大成功したアメリカンバンドの全米ツアーに、一晩だけだが同行したことがある。CBSソニーの洋楽の担当者として、最初に手掛けたアーティストがジャーニーだった。前任者の後を受け、80年のライブアルバム『ライヴ・エナジー(Captured)』、そして大ブレイクした81年『エスケイプ』。これで名実ともに全米ナンバーワンのアメリカンバンドになり、そして、83年に『フロンティアーズ』発売。

このタイトルを冠にした『フロンティアーズ・ツアー』はアルバム発売と同時に本国に先駆け、極めて戦略的な判断で2月下旬から日本公演を行い、そして3月末から全米ツアーをスタートさせた。何故に日本公演を真っ先にやってくれたのか、などブレイクまでの道のりに関しては、過去のコラム『海外アーティストの来日公演、プロモーターとレコード会社のパートナーシップ』に書いているので機会があったら是非読み返して欲しいと思う

1983年7月、ヒューストン公演からオースティン公演へ同行


当時の『フロンティアーズ・ツアー』の日程がネットにアップされていた。ここに自分のパスポートの出入国記録を照らし合わせると、何時のライブにアテンドしたのか判明する。1983年6月末から7月上旬出国していた。ちょうどビリー・ジョエルの『イノセントマン』発売直前での NY 取材で出張しており、それを終えてからジャーニーのツアーにジョインしたことになる。36年前の事、テキサス州でのライブだったことは覚えていた。今回ジグソーパズルのピースがはまった。

1983年7月3日ヒューストン公演にアテンド。終了後オースティンへ移動。

ツアー日程を調べるとまさにビンゴ。7月1、2、3日とヒューストン公演。5日にオースティンとなっている。つまり、この3日の公演に合流し、それが終わってオースティンへ移動したのである。移動は十数人乗りのプロペラ双発の小ぶりなプライベート飛行機だった。操縦席の下あたりのボディに、『フロンティアーズ』のアルバムカバーと同じイラストが貼ってあり、ツアー用にチャーターされたものであった。当時写真も撮っていたのだが、保管が悪く紛失したのが残念だ。

来日公演中に、ツアーに同行するのは珍しい事ではないが、アメリカ国内でのライブ取材となると、ライブを観て楽屋で挨拶するだけであって、一緒に次の地へ移動した事はない。このヒューストン公演のバックステージで見たもの。そしてオースティンへのフライトの体験は私の洋楽人生の中でも貴重なものになった。

US公演回数104本、アリーナクラスの会場はすべてソールドアウト


そもそもが、このクラスがツアーをスタートさせると広大な北米大陸をくまなく回る事もあり、この US だけでも公演回数104本。期間は、ほぼ1年。

この頃のジャーニーは『エスケイプ』の大成功以降いわゆる “アリーナクラス” と言われ、会場キャパは1万5,000~2万人。なかには小振りなスタジアムも含まれ、こういう場合のキャパは3万人前後。プロスポーツのマーケットが巨大なアメリカでは、全米各地にこのクラスの施設は沢山あるし、大学スポーツも大盛況なので学校の体育館ですら武道館の倍以上のサイズのものもある。

もちろん “オール・ソールド・アウト” だ。ちなみに前回の『エスケイプ・ツアー』は世界中で140公演。ブレイクを挟みながら丸2年ツアーをしていた。彼らの MV「時への誓い(Faithfully)」では、そのツアーの過酷さが描かれている。バスやトレーラーの軍団が大陸を移動し、毎晩のように公演をやっていく。家族とも会えず疲労も重なっていく… という具合で、成功してお金が貯まると、もう全米ツアーはやりたくない… という気持ちも理解できる。

1年以上のツアー生活、巨大な組織はファミリー同然


話を聞いて「なるほど」と驚きつつも納得するのが、ツアーが始まるとスタッフ&クルーの独身たちは、アパートを解約して仕事に臨むという事。確かに、間違いなく1年以上もツアー生活を続けることになるわけだからアパートは不要だ。実際、仲良くしていたジャーニーのマネージメントスタッフの一人は、サンフランシスコ湾に浮かぶ船の中で生活していた。事務所社長が所有している大型の豪華なヨットだが、そのメンテナンス管理も含めて、この中で寝泊まりしていたのだ。案内された時は冗談かと思ったが、本当であった。

また長期にわたるツアーという事は、ひとつの巨大な集団がファミリー同然に、遊牧民族的に生活の拠点を毎晩移動させていくという事と同じだ。そこには組織化された機能と同時に、衣食住の要素も必要とされている。つまり、シェフ、栄養士、医者、トレーナー、会計士など、みんな一緒に移動する。バックステージにはキッチン、ダイニング、トレーニングジム、アミューズメントルーム… なんでもある。

ライブ当日、関係者は全員、会場で食事をする。メンバーからスタッフ、クルーまで、全員分の食事を作るシェフ及び料理スタッフ達。そしてメンバーの体調を管理する栄養士とコンディショニングトレーナー。ステージ設営時での事故や観客への医療対応のためのドクターとナース。グッズの売り上げの現金管理やクルー達への週給を支払うための経理マンなどが集まり一つの巨大なチームを作って動いているのだ。

となると必然的にバックステージには、施設として、キッチン、ダイニングからトレーニングジム、アミューズメントルーム、なども設置されている。もちろんメンバー&スタッフ用とは別にワーキングクルー用のホスピタリティルームも常設されている。食材を運搬する車もあり、まさにカウボーイが大陸横断する映画『ローハイド』の世界と同じである。

ステージクルーは2チーム、先回りのセッティングで効率的な興行


ツアースタッフ&クルーの数も、100人前後。この基本チームに加え、過酷な全米ツアーを効果的にヤリクリするために、ジャーニー・マネージメントは、ステージ設営の鉄骨や機材類を2セット有しており、この別動隊のために、もう数十人の作業クルーを雇っていた。

たとえば、今夜ある地でライブをやっている時、別チームは既に次の会場の設営に入っており、ライブが終わったチームは速攻でバラして、次の次の会場に向かう… という感じで、セットアップの時間短縮、サウンドチェックやリハの時間確保などで最高のライブができる環境を提供している。これにより不慮のトラブルにも十分な備えを持ちつつ万全の態勢で全米ツアーをオペレートしていたようである。だから効果的な興行日程が組めるという訳でもある。

チーム・ジャーニーが成功させていた新しいビジネスとは?


話は逸れるが、この数年後に、サンフランシスコにある彼らジャーニー・マネジメントのニューオフィスを訪問した時、驚いた事がある。オフィスの裏手に巨大な倉庫があり、そこはまさに資材置き場であった。彼らは『フロンティアーズ・ツアー』の前から、マネージメント業務以外に新しいビジネスを成功させていた。アリーナやスタジアムライブでは必ず登場する巨大映像モニターがあるが、その映像モニターの会社も運営しており、マイケル・ジャクソンやブルース・スプリングスティーン、プリンスなどスーパーアーティストの巨大ツアーご用達となっていた。

ジャーニーのライブがない時期は、ステージ制作の下請けチームとして稼働させているし、設置用の鉄骨から PA、照明、撮影機材はもちろんの事、重機、クレーンに至るまで全て自前で揃えていたのである。

アーティスト・マネージメントの会社名は NIGHTMARE。かたや映像会社名は NOCTURNE。日本語に訳すと “悪夢” と “夜想曲”… 彼らは60年代フラワーチルドレンの生き残り連中で、なかなかファンキーなネーミングである。

食事は大切、高級レストランのようなリラックスできる環境で


話を戻そう。ジャーニーのマネージメントスタッフに案内されてダイニングへ。ちょうど開場前の食事時でもあり、スタッフ&クルー達もバウチャーをもって並んでおり、一緒にビュッフェスタイルで楽しんだ。元からアメリカは、なんでもケータリングの国… という事もあるが、気候がよければ戸外にテーブルを出し BBQ をやる事もあるらしい。

ちなみに街中でのレコーディング時ですら、日本で言うところの出前を頼むのと同じレベルでケータリングサービスを頼むと、シェフが飛んで来て、スタジオの外でホットミールを作ってくれたりもする。仕事中に拘わらず温かい食事が摂れるということは結構大事なポイントである。

また、こういう事は特に感心するのだが、アリーナ会場に多く見られるコンクリートに囲まれた殺伐とした環境でもシェフたちは花を飾り、ホテル宴会場の如く清潔ないでたちで、きれいにテーブルをセットし、高級レストランかのような雰囲気を作りだし、リラックスできる環境をバンドメンバー、スタッフ、クルーたちに提供していた。

日本の興行会社も学んだ、クオリティの高いホスピタリティ


当時アメリカで大人気だった、コンピューターゲーム ATARI に、彼らを主人公にした『ジャーニー・エスケイプ』というソフトが発売されていたのだが、遊戯室にはその大型のゲームマシンやピンボールマシンなどが数台置かれていた。手を休めたスタッフが遊んでいたし、トレーニングジムで汗を流しているスタッフもいれば、ホスピタリティルームではメンバーやゲストがくつろげるように、ソファーセットが置かれ常時軽食や飲み物が準備されている。ここは仕事場でもあるし、くつろげるホームでもあった。

これも大成功したバンドのツアーならではの光景で、予算が潤沢にあるからからこそ、こういうクオリティの高いバックステージが準備できるというもの。またこういう設えは、PA や照明、舞台の演出ハード&ソフト同様に外人アーティストの来日公演を通じて日本にもたらされ、日本の興行関係者も学んでいった… という歴史的な歩みがある。

余談だが、ローリングストーンズになると、全てにおいて別格で、この豪華さに驚いたものである。これは後日にでも。

移動がプロペラ機である理由、そして飛行機嫌いのスティーブ・ペリーは?


ライブが終了すると、そのまま次の会場へ移動することになる。そこでスーパースタークラスの全米ツアーに欠かせないのがプライべート飛行機である。アメリカ各地には小さな飛行場が沢山存在する。そういうローカルなエアポートは滑走距離が短い。ということは、こういうローカルエリア間を移動する国内ツアーに於いてはジェット機よりはプロペラ機の方が “利便性が高い”という事でもある。

彼らは、このツアーのために中型機をチャーターしており、到着してタラップ降りると、映画さながら、そのままリムジンに乗ってホテルまで直行。もちろん、移動状況によっては車のほうが便利な場合もあり、この二つの交通手段を会場ごとに使い分けていた。

ちなみに私が飛んだヒューストンからオースティンまでの距離を調べてみたら270キロ。1時間ぐらいの搭乗時間だが、それでも早めに着いたバンドメンバー達はホテルで体を休める事ができるというものだ。

実はメンバーの中でもスティーブ・ペリーは大の飛行機嫌い。飛行機の利用はできるだけ避け、彼だけは当時の恋人のシェリーと一緒に、大型のトレーラーに取り付けられたリビングルームで移動していた。ベッドルーム、シャワールーム付の豪華な部屋が、そのまま動くのである。残念ながら中は見せてもらえなかったが、快適な空間である事は間違いない。

ジャーニー、まさにアメリカンドリームそのものを掴んだバンド!


全米で大成功するということは、とんでもない大金を手にするという事である。レコード印税は別にして興行ビジネスとして、入場料やグッズでのグロス売上は当時の物価換算で100億円以上。動員数含めてこの2倍近いスケールだった『エスケイプ・ツアー』は200億円以上。ジャーニーは、まさにアメリカンドリームそのものを掴んだバンドであった。

2020.01.02
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カタリベ
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喜久野俊和
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