ほとんど語られることのない、80年代 新宿・渋谷のディスコシーン
日本のクラブカルチャーについて、70年代のヒップな文化人に愛されたディスコ、ビブロスやムゲン、そして90年代のバブル景気の熱を体現したジュリアナ東京や芝浦ゴールドが語られることがあっても、80年代の新宿、渋谷のディスコシーンが語られることはほとんどなかったと思う。
しかし、ここにこそ、ホンモノのユースカルチャーが存在したと断言しよう。
新宿のディスコといえば、82年、ワンプラスワンが舞台となり、未解決事件として時効を迎えた “新宿歌舞伎町ディスコナンパ殺傷事件” や、この事件にインスパイアされて作られたといわれる尾崎豊の「ダンスホール」などからも、暴走族や非行少年といった印象の殺伐とした場所を想像しがちだが、実際に通っていた客層は、僕を含め、なんとか毎日学校に通い、放課後はファストフード店などでバイトをしている普通の高校生がほとんどだったように思う。
建前上18歳未満入場不可とあっても、逆に18歳以上の客はほとんどいなかった。この頃は高校生でも、居酒屋なんかにも普通に入店できた。そんなおおらかで牧歌的な時代だったのだ。80年代は。
高校生にうってつけ、実は健全な社交場?
当時のディスコの入場料は、男性で、会員証となる店のカードやキーホルダーを提示すれば1,500~2,000円、女性は1,000円。女のコは、街でタダ券なんかを配っていたから、それを使って入っているコも多かったと思う。
この金額でフリーフード、フリードリンクというのも、1日5食6食は当たりまえの高校生にとってはなんとも嬉しかった。メニューもピラフ、ピザ、唐揚げなどのガッツリ系が並び、店によっては、冬におでんが出されていたと記憶している。
なにはともあれ、放課後おなかを満たして、体を動かし、チークタイムには女のコをナンパすることでコミュ力を学ぶ。まだ携帯ばかりか、ポケベルも普及する前だったから、DJボックスの前に常備してあるリクエストカードに自宅の電話番号を書いてもらう。
そして、中間、期末の定期テスト前になるとフロアはガラガラになっていた。まさに高校生にうってつけの、健全で格好の “社交場” だったのだ。
フロアを熱狂の渦に巻き込む、アン・ルイス「六本木心中」
僕がよく通っていたのは、新宿東亜会館のGBラビッツ、BIBA、そしてサーフボードのかたちをしたキーホルダーが会員証代わりだった渋谷公園通りのラ・スカラ。
1984年ぐらいか。当時のディスコはハイエナジー主流で、TVやラジオでは決して流れない、ここだけのヒットナンバーがあったことが衝撃だった。いわゆる今で言うところの “クラブヒット”。有名どころで言えば、ライムの「エンジェル・アイズ」やホット・ゴシップの「ブレイク・ミー(Break Me into Little Pieces)」なんかには振付もあって、さながら今の高校生たちが体育の授業でやっている創作ダンスみたいなものだ。
こんなハイエナナンバーに紛れて、当時のヒット曲もプレイされた。人気が高かったものはヴァン・ヘイレンの「ジャンプ」やケニー・ロギンスの「フットルース」など。フットルースは、どのディスコでもサントラ盤まるまるヘビロテだったような気がする。
そして、数少ない邦楽のナンバーがフロアを熱狂の渦に巻き込む。そう、アン・ルイスの「六本木心中」だ。
この街は広すぎる
BIG CITY IS LONELY PLACE
独りぼっちじゃ
街のあかりが
人の気を狂わせる
お茶の間とディスコを結ぶヒットナンバーの重要性
今改めて考えてみると、僕を含め当時ディスコに通っていた高校生は、学校でも、放課後に友人と集まる喫茶店でもない、「ここじゃない何処か」に行きたかったのだと思う。
そして秒速で違う世界に飛ばしてくれるのが、みんなの知らないヒットナンバーであり、クラスのほとんどが知らないミラーボールの輝きだった。そうやって、背伸びをしたかった。背伸びをして自分という存在を確立したかったのだと思う。
大人と子どもの境界線が今以上に明確な80年代。早く大人の世界に触れたかった。そういう深層心理を言葉でなく確かめ、共有するために通っていたように思う。
そして、サウンド面から考えてみても「ジャンプ」もそうだが、ハードロック的なノリが当時のディスコには必須だったのか、「六本木心中」のイントロのギターが鳴り響くとフロアの弾け方は半端じゃなかった。この曲が主題歌だったとんねるずの深夜ドラマ『トライアングル・ブルー』が放映されていた時期だったというのもあったのかもしれない。
つまり、お茶の間とディスコを結ぶヒットナンバーが、その敷居を低くし、初めてディスコに来る高校生でも思う存分楽しめる空間にしていた。
まさにTEENAGE HEAVEN、十代の楽園がそこに!
このようなディスコ文化が陰りを見せたのは、確か1987年ぐらいだったと思う。西麻布のトゥールズ・バーなどの “クラブ” のハシリができて、Run-DMCの「ウォーク・ディス・ウェイ」の大ヒットによりHIPHOPが台頭してきたころだ。僕より上の世代の先輩たちが、より細分化された音楽を好むようになり、クラブごとに音楽の特色が分かれてきた。
90年代にはいると、フリーフード、フリードリンクのディスコはほとんど見かけなくなってしまう。僕も、高校を卒業する頃になると、よりロックに傾倒し、クラブ通いを始めるようになるのだが、あのキラキラとしたミラーボールに照らされた怪しげなバイオレッド・フィズの光りと、フロアに充満するコパトーンの甘いココナツの香りは一生忘れることがないだろう。
まさにTEENAGE HEAVEN。十代の楽園がそこにあった。
※2017年6月26日に掲載された記事をアップデート
2020.11.09