1976年 3月20日

志村けんとブラック・ミュージック!志村の加入でドリフターズはどう変わっていったのか

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いかりや長介とザ・ドリフターズのシングル「ドリフのバイのバイのバイ」発売日(本作より志村けん参加)
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あらゆる世代に親しまれた不世出のコメディアン、志村けん


3月29日は、志村けんの命日。亡くなられたのは今から4年前の2020年、日本が新型コロナウィルス感染症(COVID-19)のパンデミックに突入しはじめた時期のことである。日本人なら誰もが知る超大物コメディアンの突然の死に、日本中が驚き、悲しみに包まれた。

70〜80年代なら『8時だョ!全員集合』や『ドリフ大爆笑』など、ザ・ドリフターズの一員としての活躍、80年代後半からの『加トチャンケンチャンごきげんテレビ』や『志村けんのだいじょうぶだぁ』、2000年代に入ってからも『天才!志村どうぶつ園』などのレギュラーを抱え、晩年はNHK朝の連続テレビ小説『エール』での山田耕作役など、俳優としての活動も話題を呼び、あらゆる世代に親しまれた不世出のコメディアン。それに加えて、音楽ファンの間で長年語られ続けていたのが、志村の音楽マニアぶりで、それもソウル、ディスコ系の音楽に精通していたという事実である。

ドリフの楽曲やコントに導入された志村のソウルミュージック好き




志村けんの、ドリフへの正式加入は1974年3月。体力の限界を理由に脱退を決めた荒井注の後任として、正式メンバーとなった。ドリフのレギュラー番組であるTBS『8時だョ!全員集合』に出演するが、しばらくはあまりギャグもウケず低迷する。だが、次第に志村のソウルミュージック好きが、ドリフの楽曲やコントに導入されていくようになる。

それが最初に表れたのは、志村初参加となった76年3月20日リリースの「ドリフのバイのバイのバイ」。16ビートの軽快なギターカッティングと、華麗なベースラインを持つディスコ曲で、曲調はヴァン・マッコイ「ハッスル」から取られており「♪Do The Hustle!」の掛け声も挿入されている。メインヴォーカルは加藤茶だが、この曲中、志村はジェームズ・ブラウンばりのシャウトを繰り返しているのだ。



志村がブレイクするきっかけとなった「東村山音頭」




さらに半年後の、76年9月5日にリリースされた「志村ケンの全員集合 東村山音頭」(「加藤茶のはじめての僕デス」とのカップリング)は、志村がブレイクするきっかけとなった楽曲。『全員集合』の「少年少女合唱隊」のコーナーで披露され、爆発的な人気となり、レコード化された。

元は志村の出身地である東村山市のご当地音頭で、63年に三橋美智也らの歌でレコード化されているが、志村バージョンはJBのステージを模倣したオープニングに始まり、途中で「イッチョメ(一丁目)、イッチョメ、ワーオ!」とJBばりのシャウトを連発している。



「ヒゲのテーマ」はオリコンチャート5位を記録




志村のブレイク後は、ドリフターズの音楽コントにディスコ色が強くなっていった。特に大人気となったのは、『全員集合』の名物コーナー「ヒゲダンス」。加藤茶と志村けんが、黒の燕尾服に口髭をつけたボードビリアン風のスタイルに、ペンギンのような軽快な動きで次々コントを披露するといったもの。そのバックで流れる「ヒゲのテーマ」は80年2月にリリースされ、インストナンバーながらオリコンチャート最高5位の大ヒットを記録した。

この曲はハロルド・メルヴィン&ザ・ブルーノーツのリードボーカルだった、テディ・ペンターグラスの「ドゥ・ミー」という曲のベースラインが元になっており、ベースのかっこよさはもとより、随所に挿入されるギターカッティングのキレの良さも特筆すべき点。この曲を志村けんが自ら、この時期ドリフ音楽の編曲を手がけていた、たかしまあきひこに持ち込み、アレンジしてもらったそうである。

しかもこの「ドゥ・ミー」、79年6月にテディがリリースしたアルバム『テディ』の1曲で、ほとんどタイムラグがない状態でヒゲダンスに引用していることからも、志村がいかにトレンドのソウルミュージックに精通していたかがわかる。



「ドリフの早口ことば」はウィルソン・ピケットからの引用




さらには、80年12月21日にリリースされた「ドリフの早口ことば」。「東村山音頭」大ヒットの契機となった、これも「少年少女合唱隊」のコーナーでお馴染みの音楽コントで、ディスコ調のリズムに乗せて「♪生麦生米生卵…」とゲストに早口言葉を言わせるもの。

このオケもウィルソン・ピケットの「ドント・ノック・マイ・ラブ」からの引用で、ソウルミュージックのフレーズを抜き出し、ループさせてトラックを作り、そこにトーキングを重ねるという、ラップと同様の手法なのだ。おそらくはこちらも「ヒゲダンス」同様、志村のアイデアだろうが、志村は73年にリリースされたマーヴィン・ゲイとダイアナ・ロスのカバーバージョンを参考にしたのではないだろうか。

同コーナーでは、志村がお婆さんの腹話術人形を使った「ディスコ婆ちゃん」のコントもあり、志村はここでもファンキーなリフを用いてギャグに変えていた。



ソウル、ディスコ系の音楽をギャグに転化する志村けんのセンス


志村けんは、ソウルミュージックの熱心なマニアで、音楽誌『jam』(シンコーミュージック刊)では、「志村けんが愛したブラック・ミュージック」という連載を持っており、他の音楽誌のインタビューでは、好きな楽曲としてオーティス・レディングの「セキュリティ」を挙げていたり、ラスベガスの小さなライブハウスでジェームス・ブラウンを見た話などを披露している。元々はビートルズマニアだったが、ソウル好きになったのは、ドリフ加入後、新宿のディスコで黒人バンドの演奏を聴いて、ワンコードで同じリズムを刻むのが心地よくてハマったことを、自身のエッセイ『変なおじさん』に記している。

そもそも、ザ・ドリフターズは音楽コントを得意とするバンドだった。1966年にザ・ビートルズ来日公演の前座を務めたことでも知られるが、この時も「のっぽのサリー」を演奏しながらの音楽コントを披露している。

志村加入前のドリフの楽曲は、大ヒットした「ドリフのズンドコ節」をはじめ、「ドリフのほんとにほんとにご苦労さん」、「誰かさんと誰かさん」など、民謡や軍歌を現代的にリアレンジしているものがほとんどだった。ここで数多く起用されたのが作編曲家の川口真で、上記の楽曲にグルーヴィーな編曲を施し、現代的にアップデートさせている。元々、ドリフの音楽にはソウルフルなノリがあり、それが志村加入によって、ファンクやディスコの要素が加わることになったのだ。

ドリフの徹底的にわかりやすく庶民的で、いささか下世話なギャグセンスと、ソウル、ディスコ系の音楽は実に相性がいい。この2つを融合させることに成功したのは、これらの音楽からアイデアをとりギャグに転化する志村けんのセンスが反映されたからだろう。

ソウルミュージックのグルーヴ感覚と、ディスコ音楽のテンポ感を、意識させずとも日本の子どもたちに植え付けたのが、ザ・ドリフターズ、そして志村けんの音楽面での最大の功績なのだ。今、志村けんが作ってくれた、幾多の音楽コントを改めて見るたびに、どうしても爆笑と同時に、つい泣けてしまうのは、『全員集合』を観ていた世代のDNAに志村のこういったセンスが深く刻み込まれているからに他ならない。今も志村けんには感謝してもしきれないのである。

ⓒイザワオフィス


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2024.03.29
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