1976年「ペッパー警部」でデビュー。巻き起こったピンク・レディー旋風
当時のピンク・レディー旋風をどう表現したらよいだろうか。とにかく凄かった。とは言え、デビューした1976年夏の時点で自分はまだ小学6年生。社会現象などという言葉はまだ知る由もなかったが、とてつもない人気の波が押し寄せて来ていたのは実感させられた。デビュー曲「ペッパー警部」がチャートを駆け上がったのは8月の発売から少し経ち、本格的な秋を迎えてからのことだった。
その時点では、約1年前に発売されてメガヒットとなった「およげ!たいやきくん」と同じような、面白い歌がまた出てきたなという感じに過ぎなかった。それが第2弾シングル「S・O・S」、翌1977年に入っても「カルメン'77」とヒットを連ね、4枚目の「渚のシンドバッド」でミリオンセラーを記録するに至っていよいよ本格的なブーム到来となる。さらなるヒットとなった「ウォンテッド(指名手配)」はチャート12週連続1位を獲得。そして、12月に出された「UFO」が最大のセールスを更新する中で1977年は暮れていった。
トレンドを採り入れた阿久悠の歌詞、大胆な振り付けは土居甫
明けて1978年、麗しき春が到来していた3月25日にリリースされた通算7枚目のシングルが「サウスポー」である。当時の歌謡界でトップ3といえる人気だったのが、ピンク・レディーと山口百恵と沢田研二。そしてスポーツの世界で彼らに負けない人気を誇っていたスター選手が、読売ジャイアンツの王貞治だった。雑誌の綴じ込み付録に、ピンク・レディーと王選手のポートレートが並んでいたのを記憶している。
長嶋監督率いるジャイアンツがV2を達成した前年、王選手はシーズン終盤で756号ホームランを放ち、ハンク・アーロンを抜いて世界一になっていた。そこへ来ての「サウスポー」は、放送作家出身でトレンドを歌詞に採り入れるのが巧みだった阿久悠ならではの得意技である。前作「UFO」も映画『スター・ウォーズ』や『未知との遭遇』の人気が反映された作品であった。
それまでのどの曲よりも速いピッチで、魅力的なメロディと疾走感に満ちたリズム、鮮やかなピンクの衣装に、土居甫の派手な振り付け。全力で踊りながら歌う二人が毎日のようにテレビに映し出されて僕らは釘付けになった。当時の自分はキャンディーズの大ファンではあったけれども、もちろんピンク・レディーも好きだった。3人にはなかったいい意味での下世話さと大胆さ、時折覗くエロティシズムに惹かれたのだろう。同年代の女子たちは振りを覚えて一緒に踊っていたはず。男子校に通ってしまったことが悔やまれてならない。
阿久悠×都倉俊一コンビ、ノベルティ歌謡の最高峰「サウスポー」
有名な話として、最初出来てきた曲がレコーディングまで終わっていたにもかかわらず、ビクターの飯田久彦ディレクターがダメ出しをして仕切り直しになったというエピソードがある。
都倉がすぐに曲を書き直し、阿久も一晩で新たに作詞して、急遽再レコーディングが行なわれたのだそうだ。それで生まれたのが、この「サウスポー」というわけで、結果的に飯田の大英断だったといえる。その時にお蔵入りになっていた未発表作品は、その後2008年に出されたCDボックス『続・人間万葉歌〜阿久悠 作詞集』に収録されて日の目を見ることとなった。
「サウスポー」はその後、山本リンダの「狙いうち」と共に甲子園でブラスバンドが演奏する応援メロディの定番となって現在に至る。「狙いうち」も阿久悠×都倉俊一コンビの作品なのだ。山本リンダやフィンガー5で培われた、ふたりのノベルティ歌謡がピンク・レディーで見事に結実したのだった。「サウスポー」はその最高峰ともいうべき一曲なのである。
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2022.11.17