ピンク・レディーが日清焼きそばU.F.O.のCMで歌っていたコマソンは…
とかく、人の記憶はいい加減である。
例えば、カップ焼きそば界で長年に渡ってトップブランドに君臨する王者「日清焼きそばU.F.O.」――。僕はこの歳に至るまで、ずっと同商品がブレイクしたのは、かのピンク・レディーの人気に便乗して、大ヒット曲「UFO」から商品名を拝借し、更にはCMも2人に出演してもらい、まんま「UFO」を歌ってもらったから―― と、ずっと思っていた。
ずっと思っていた。
しかし、今回の原稿を書くにあたり、改めて調べると、「日清焼きそばU.F.O.」が新商品として登場したのは1976年5月。ピンク・レディーの「UFO」がリリースされる1年7ヶ月も前のことであり、そもそも商品名の「U.F.O.」とは、日清食品曰く「うまい」、「太い」、「大きい」の頭文字からとっているという。
更に驚くのは、ピンク・レディーが同商品のCMで歌っていたのは「UFO」ではなく、アレンジは似ているものの、メロディも歌詞も異なるCMオリジナル曲の「日清焼きそばUFO」だった――。
ね、驚くでしょ(笑)。
ちなみに同曲、改めて聴くと、詞は商品に寄せて書かれた、いわゆるコマソン(コマーシャル・ソング)仕様で(これも忘れていた)、作詞はオリジナルの阿久悠サンじゃなくて、なんとピンク・レディーの所属事務所「T&C」(※当時)の貫泰夫社長の名義。で、作曲はオリジナルと同じ都倉俊一サンという、なかなか珍しい座組なんですね。都倉先生にしてみれば、セルフ・パロディだった。
ザ・ベストテン第1回の1位曲「UFO」
思えば、70年代の半ばあたりまで、CMソングとはオリジナルのコマソンを指していた。当時、大滝詠一サンや山下達郎サンが手掛けた一連のCMソングもその系譜。ところが77年あたりから、例の「資生堂VSカネボウCMソング戦争」がヒートアップして、実際にリリースする楽曲とタイアップして、CMで楽曲をそのまま使用するケースが増えていった。そこからヒット曲が量産されたこともあり、80年代以降はその手法が定番になった。
ピンク・レディーはその過渡期にいたんだけど、振り返ると、彼女たちが出演したCMは、どれもCM用に作られたコマソンを歌っていたんですね。ちなみに、一連の楽曲は彼女たちの2枚目のオリジナルアルバム『星から来た二人』に、「コマーシャル・ソング・メドレー」として収録されている。
閑話休題。
少々前置きが長くなったが、今回は、そんなピンク・レディーの最大のヒット曲、実に155万枚を売り上げた6枚目のシングル「UFO」の話である。リリースは、1977年12月5日。年をまたいで、翌月に始まった『ザ・ベストテン』(TBS系)の記念すべき第1回の1位曲でもある。
映画「バーバレラ」のエッセンスを現代風にアップデート?
手を合せて 見つめるだけで
愛し合える 話も出来る
くちづけするより甘く
ささやき聞くより強く
私の心をゆさぶるあなた
割と有名な話だが―― この「UFO」の冒頭5行の歌詞は、一説には、宇宙を舞台にしたB級オシャレ・カルト映画『バーバレラ』(タイトルバックで主演のジェーン・フォンダが無重力空間でストリップを演じるアレです)に登場する未来人のラブシーンをオマージュしたものとも言われる。同映画によると、ある薬を飲んで男女が手を合わせるだけで、1分ほどでオーガズムに達するとか(笑)。
おっと、これはパクリではない。エンタメにおけるクリエイティブとは、優れた過去作品のエッセンスを現代風にアップデートする作業。何も問題ないし、この元ネタのチョイスがセンスにあふれて素晴らしい。ちなみに、同曲のミイとケイの銀のスパンコール衣装も、同映画でジェーン・フォンダが着ている未来の服によく似ている。
大人たちが気づかない楽曲の “新しさ” を見抜いたのは…
思えば、作詞:阿久悠、作曲:都倉俊一コンビの手掛けるピンク・レディーの一連の楽曲は、デビュー曲から一貫して新しかった。「ペッパー警部」は、映画『ピンク・パンサー』を模して、振り付けも含めて極めてアニメソング的に作られたし、次の「S・O・S」は、イントロにシンセサイザーで作った “SOS” のモールス信号を入れる遊び心で話題に。オリコン12週連続1位の「ウォンテッド(指名手配)」は、片岡千恵蔵主演の『多羅尾伴内』シリーズをオマージュしつつ、日本の歌謡曲史上初めてラップの要素を取り入れた。
当時、これらの楽曲はキッズマーケットに刺さり、爆発的なセールスを記録するが、面白いことに阿久・都倉コンビは一貫して子供向けに書いた覚えはないという。そう、子供は子供向けに書かれた作品を嫌う。ピンク・レディーのファン層の半分は小学生以下が占めていたが、逆に言えば、大人たちが気づかない楽曲の “新しさ” を、いち早く見抜いたのが子供たちだったとも――。
実際、今やピンク・レディーの歴代シングル曲は、その先進的なクリエイティビティが、“サブカル” の世界において再評価されている。いい意味で、リアリティの欠片もない世界観が、一流のエンタメとして刺さる人には刺さるという。その最たる作品が、ピンク・レディー最大のヒット曲「UFO」である。
アメリカでも大盛り上がり “異星人を相手にしたラブソング”
信じられない ことばかりあるの
もしかしたらもしかしたら そうなのかしら
それでもいいわ 近頃少し
地球の男に あきたところよ
―― 驚くなかれ、「UFO」に登場するヒロインは、もはや地球の男に飽きている。一見、突拍子もない設定だが、同曲がリリースされる半年前に、銀河系を舞台に異星人同士が交流する映画『スター・ウォーズ』が全米で封切られている。少なくともアメリカ人にとって、「UFO」が描く世界観は、もはや荒唐無稽なものではなかった。
実際、ピンク・レディーがアメリカで冠番組を持った1980年3月、ある回で2人が「UFO」を披露したところ、スタジオの観客たちが大いに盛り上がったという。歌詞は日本語なので、詳細な意味は彼らには分からない。でも、イントロのシンセやスパンコールの衣装、キッチュな振り付けなどが織りなすイメージとタイトルの「UFO」から、異星人を相手にしたラブソングというフレームは伝わったのではないか。
個人的には、彼女たちの全米デビューは、アダルトでカッコいい「Kiss In The Dark」も悪くなかった(何せ全米ビルボード37位だ)が、日本語歌詞のまま「UFO」を出していたらどうなっていただろう…… と思ってしまう。いわば、アニメのキャラクターを見るような目で、アメリカ人は2人を見たのではないだろうか。日本人女性としては比較的高身長の(ミイ=165cm、ケイ=162cm)彼女たちは、画面映えするし、日本では子供たちにウケる同曲が、あちらでは大人たちが面白がってくれたかもしれない。
阿久悠が「UFO」を書いた経緯
ところで―― なぜ、阿久悠サンはあの時点で突然、ピンク・レディーに「UFO」の歌詞を書いたのか。実は、そのキッカケと思われる出来事が、1977年8月18日から15日間、各界のクリエイター8人を集めて、南太平洋のサモアやタヒチなどの島々を巡った「南太平洋 裸足の旅」にあるという。
同企画の発案者は、国鉄(当時)の「ディスカバー・ジャパン」を仕掛けた電通の藤岡和賀夫プロデューサーだった。参加した8人とは、作詞家・阿久悠、カメラマン・浅井慎平、画家・池田満寿夫、画家・横尾忠則、音楽プロデューサー・酒井政利、評論家・平岡正明、京大教授・多田道太郎、そしてイベントプロデューサー・小谷正一である。
8人は島に着くと、一人一人引き離され、各々現地の家に泊まった。そして定期的に集まっては、自由に感想を言い合うよう言い渡された。要は、外部からの情報を一切遮断することで、人間本来の感情や思いを引き出してもらおうと、藤岡プロデューサーは考えたのだ。実際、そのブレーンストーミングから生まれた企画が、矢沢永吉の「時間よ止まれ」であり、ジュディ・オングの「魅せられて」であり、久保田早紀の「異邦人」であり、ピンク・レディーの「UFO」だった。
「UFO」が生まれた経緯はこうである。8人がイースター島に連れてこられた時のこと。横尾忠則サンが「今夜はUFOを呼ぼう」と言い出すので、皆で観察していたら、本当に光る物体が見えた。だが、阿久悠サンは「管制塔の光」と否定する。果たして翌日、その場所を確認すると、管制塔は島の反対側にしかなかった――。帰国後、阿久サンはその時の経験を基に、自分のような夢のない地球の男に飽きる女の子の詞を書いたという。
オリコンランキングでトップ3を独占!
かくして、1977年12月5日にリリースされた同曲は、オリコン・シングルランキングで10週連続1位を記録。155万枚を売り上げ、ピンク・レディー最大のヒット曲となる。更に、1978年の年間シングルでも1位に。ちなみに、同年は年間のトップ3もピンク・レディーが制し(2位「サウスポー」、3位「モンスター」)、いずれもミリオンという快挙を達成する。
数字だけじゃない。賞レースにおいても同年、ピンク・レディーは「サウスポー」で日本歌謡大賞、そして「UFO」で日本レコード大賞と2冠を達成。名実ともに、ナンバー1歌手になる。
1978年12月31日午後8時50分過ぎ―― レコード大賞を手に、帝国劇場を出たピンク・レディーはパトカーに先導され、『紅白』が行われる渋谷のNHKホールではなく、新宿コマ劇場へ向かった。日本テレビのチャリティー特番『ピンク・レディー汗と涙の大晦日150分!!』に出演するためである。
午後11時25分、同番組終了。続いてミイとケイの2人は、テレビ朝日が幹事局を務める民放合同の萩本欽一司会の『ゆく年くる年』にも出演。新年のカウントダウンを盛り上げた。
思えば、この大晦日がピンク・レディーの頂点だった。迎えた新年、2人の前に長い下り坂が待ち受けていようとは、一体誰が予想しただろうか。小雨まじりの後楽園球場で解散コンサートが行われる、2年3ヶ月前の話である。
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2022.10.15