1977年 12月5日

8月25日デビュー!ピンク・レディーはテレビ黄金期が生んだ “はじめての味覚”

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ピンク・レディーがデビュー! キャッチフレーズは“はじめての味覚(あじ)”


 ペッパー警部 邪魔をしないで
 ペッパー警部 私たちこれからいいところ

抜群のハーモニーとリズム感を持つミイとケイがピンク・レディーとしてデビューしたのは1976年8月25日のこと。キャッチフレーズの “はじめての味覚(あじ)” には「誰もやっていないことをしよう」というスタッフの想いが込められていた。事実、デビュー曲の「ペッパー警部」は歌謡曲としては斬新なブラスロック調のソウルフルなサウンド。大胆なミニスカートや、ディスコダンスをベースにした振り付けにも十分なインパクトがあった。



9月6日付けのオリコンで99位に初登場した「ペッパー警部」は翌週100位圏外に落ちたのち78位に再浮上。以後、着実にランクを上げ、10月25日付で48位と初めて左ページ(1~50位)に入る。

10月14日の新宿音楽祭からプロジェクトに参加したデザイナーの野口よう子(当時は “野口庸子”)は「ミニで光り物がついているものを」という事務所からの注文を受けてスパンコールを多用した衣装を制作。デビュー時はテニスウェア風のシンプルなミニスカートだったが、ここからキラキラした華やかなステージ衣装がピンク・レディーのトレードマークとなる。

同音楽祭で銀賞を受賞した2人は11月16日の日本歌謡大賞で新人賞7組の一角に食い込み、11月19日の日本レコード大賞でも新人賞5組に選ばれる。上昇気流に乗った「ペッパー警部」は11月29日付けのオリコンで初のトップ10入り(8位)、翌年1月17日付けではセカンドシングル「S・O・S」との2曲同時トップ10入りも達成する。

■ 第7回日本歌謡大賞新人賞受賞者
朝田のぼる / 白いスカーフ(40位)
角川博 / 嘘でもいいの(38位)
内藤やす子 / 想い出ぼろぼろ(9位)※放送音楽新人賞受賞
新沼謙治 / 嫁に来ないか(31位)※放送音楽新人賞受賞
ピンク・レディー / ペッパー警部(29位)
三木聖子 / まちぶせ(47位)
吉田真梨 / 水色の星(39位)

■ 第18回日本レコード大賞新人賞受賞者
芦川よしみ / 雪ごもり(100位圏外)
角川博 / 嘘でもいいの
内藤やす子 / 想い出ぼろぼろ ※最優秀新人賞受賞
新沼謙治 / 嫁に来ないか
ピンク・レディー / ペッパー警部
(注)カッコ内は出場時点でのオリコン最高位

筆者は当時小学生だったが、この秋から冬にかけての空気の変化は今でもよく憶えている。まず新しもの好きの男子が「ペッパー警部」の股開きステップを面白おかしく真似して笑いをとり、やがて女子が休み時間のたびにミイとケイのパートを決めて、お互いの振りをチェックしながら歌い始めたのだ。それまでも教室でヒデキやキャンディーズの振り付けの一部を真似することはあった。が、あちこちでペアになった2人がフルで歌い踊る、そんな光景は“はじめて”だった。

吹き荒れたピンク・タイフーン、大スターになったポイントとは?


年が明けた1977年、ピンク・タイフーンはさらに吹き荒れた。2月14日付けオリコンで「S・O・S」が初の1位を獲得すると、3月には単月で35本のテレビ番組に出演。瞬く間に時代の寵児となった2人は「邪魔をしないで」「私たち これからいいところ」とばかり、歌謡界の記録を次々と塗り替えていく。以下、オリコンでの快進撃ぶりを振り返ろう。

1977年9月:天地真理を抜いてシングル4作連続1位(最終的には9作)
1977年11月:天地真理・小柳ルミ子を抜いて通算24週目のシングル1位を獲得(最終的には63週)
1978年2月:史上初のシングル2作連続ミリオン(最終的には5作)
1978年12月:史上初のシングル年間トップ3を独占
1979年4月:史上初のシングルセールス1000万枚突破

「スター誕生!」でスカウトの札を上げた相馬一比古と飯田久彦の情熱


ピンク・レディーがここまでの大スターになれたのはなぜか。筆者は5つのキーポイントがあったからだと考えている。まずは『スター誕生!』(日本テレビ系)でミイとケイにスカウトの札を挙げた2人の人物の情熱である。その2人とは、所属事務所・T&Cミュージック(スカウト時点では“アクト・ワン・エンタープライズ”)の制作プロデューサーだった相馬一比古と、所属レコード会社・ビクター音楽産業(現JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)のディレクターだった飯田久彦――。

相馬は芸映でいしだあゆみ、西城秀樹、浅田美代子らを手がけた敏腕マネージャーで、スカウト直後の面談で「君たちをアメリカのショービジネスで勝負させたい」と、いきなり大きな夢を語ったという。一方の飯田は60年代に「ルイジアナ・ママ」などのカバーポップスでヒットを飛ばした元歌手で、1972年にディレクターに転身。このときは「ザ・ピーナッツのような、歌って踊れるデュオを作りたい」との想いで札を挙げる。ビクター社内では同じ決戦大会に出場していた清水由貴子を推す声が圧倒的だったが、それを抑え込んでのスカウトだった。洋楽志向で、歌って踊れるエンターテイナーを自分の手で育てたいという男たちに見込まれたからこそピンク・レディーは誕生したというわけだ。

阿久悠、都倉俊一、土居甫、野口よう子… 終結した気鋭のクリエイターたち


第2のポイントは進取の気性に富んだ気鋭のクリエイターたちが集結したこと。メンバーは作詞家の阿久悠、作曲家・編曲家の都倉俊一、振付師の土居甫、ファッションデザイナーの野口よう子だ。企画の中心となった阿久は山本リンダ、フィンガー5に次ぐ“絵空事路線”を設定。先にタイトルとコンセプトを決め、それをもとに都倉が作ったメロディに詞をはめていく手法で多くの楽曲が制作されていく。阿久・都倉のアクトクコンビが生み出した“3分間のアニメーション”の世界観を振り付けと衣装でさらに増幅したのが土居と野口であった。

ミイとケイの向上心


第3のポイントはミイとケイのポテンシャルと向上心だ。2人はもともと地元静岡のヤマハで2年以上、ソウルフルな曲をミニスカートにブーツ姿で踊りながら歌っていた実力派。『スタ誕』でフォーク調の「部屋を出て下さい」を歌ったのは、その方が純朴に見られて、合格する可能性が高まるだろうという計算の上でのことだった。それゆえ一時はフォークデュオとして売り出される可能性もあったが、程なくして「ペッパー警部」とB面の「乾杯お嬢さん」が完成。いずれもダンサブルな楽曲で、2人が望む路線でデビューすることが決定する。当時は一部で「こんな風に変えられちゃって可哀想」と見る向きもあったが、本人たちはノリノリ。『スタ誕』合格からわずか半年後にデビューすることができたのは、彼女たちにそういう曲を歌いこなせる素養があったからに他ならない。

またアイドルとしては遅めの18歳でのデビューというのも結果的にはよかった。高校卒業を間近に控えた『スタ誕』出場まで、進学も就職も決まっていなかった2人は「もう後がない」状態。ラストチャンスでようやくプロになれたことが「歌い続けていくためにはどんなことも乗り越えていく」という強い想いに結びつく。睡眠1~2時間の殺人的なスケジュールに追われながら全米進出を果たすまでに成長したのは、あくなき向上心があったからに違いない。さらにもう1つ、18歳でのデビューは、阿久が仕組んだ「カラリとしたお色気路線」を体現するにもちょうどいい年齢だった。

新興事務所が可能にした慣例にとらわれない冒険


第4のポイントは新興事務所の所属だったことが挙げられる。T&Cミュージックは脱サラした証券マンと生保マンが1976年4月に設立したばかりの新会社。制作部長に就任した相馬以外は芸能界での実績がないメンバーだったが、それが業界の慣例にとらわれない冒険を可能とする。「君たちをアメリカのショービジネスで勝負させたい」という相馬の夢が短期間で叶ったのはT&Cがベンチャー企業だったからといえるだろう。

ビクターに他にいなかった有力新人


そして第5のポイントは1976年のビクターに有力新人がいなかったことである。1972年の麻丘めぐみ以来、桜田淳子、西川峰子、岩崎宏美…と、毎年日本レコード大賞の新人賞5枠に新人を送り込んできたビクターだが、1976年はその席がぽっかりと空いていた。当時の宣伝マンの証言によると、当初の宣伝費はピンク・レディーと同じ日にデビューした女性5人組のフラワーキッスの方が多かったらしいが(それほど2人が期待されていなかったという証しでもある)、「ペッパー警部」が動き始めたことでイチオシに昇格。暮れの音楽祭に向けてプロモーションが加速していく。

「歴史にIFはない」と言うが、もし8月以前にビクターからデビューした新人がそこそこのヒットを記録していたら、ピンク・レディーが新人賞レースに参戦する余地はなかったであろう。

それはともかく――。この5つのキーポイントで国民的アイドルに上り詰めたピンク・レディーを、筆者はテレビの黄金期が生んだ最強のスターだと捉えている。まずは時代背景を確認しておこう。

カラーテレビの急速な普及と視聴環境


1973年に白黒テレビを抜いたカラーテレビの世帯普及率は彼女たちがデビューした1976年に93.7%に到達。家庭用ビデオの調査が始まるのはその2年後で(1978年の世帯普及率はわずか1.3%)、テレビはリアルタイムで視聴するものだった。

当時の番組表を見ると、30分もしくは1時間枠が基本で、今のように長尺のバラエティは皆無。歌謡界が元気だった時代性を反映して、プライムタイム(19時~23時)の歌番組は週に10本、歌のコーナーがあるバラエティも週に8本放送されていた(1976年時点)。現在は『CDTVライブ!ライブ!』(TBS系)、『SONGS』(NHK総合)、『ミュージックステーション』(テレビ朝日系)の3本しかないことを考えると隔世の感がある。

カラーテレビの普及で華やかなステージや衣装がより楽しめるようになったことも大きく、年末の音楽番組は軒並み高視聴率を獲得。各局が自社主催の音楽祭を開催し、いわゆる賞レースがいちばん盛り上がったのは70年代後半だった。その頂点はジュリーが「勝手にしやがれ」、ピンク・レディーが「ウォンテッド(指名手配)」でグランプリを目指した1977年だったと言えるだろう。



■ 2大音楽祭の歴代視聴率トップ5
・日本レコード大賞
1位:1977年 50.8%
2位:1972年 46.5%
3位:1974年 45.7%
4位:1973年 44.1%
5位:1979年 43.3%

・日本歌謡大賞
1位:1973年 47.4%
2位:1977年 46.3%
3位:1974年 45.3%
4位:1976年 41.8%
5位:1980年 40.1%

広告費でテレビが新聞を抜いた! 初代CM女王はピンク・レディー


ブラウン管時代のテレビは画角が「4:3」だったため、一度に映すのは2人が精いっぱい。それまでのアイドルは動きの少ない手振りが主流だったが、本格的なダンスを見せたピンク・レディーは “引き” で撮られることも多かったため、ミイとケイはなるべく距離を開けず、カメラに収まるようにしていたという。

ピンク・レディーの場合、ラメやスパンコールをふんだんに使った煌びやかな衣装もカラーテレビ向きだった。デザイナーの野口は新宿音楽祭で初めて衣装を手がけたとき、ステージではキラキラして見えたのに、テレビでは黒にしか見えなくてショックを受けたと述懐しているが、その後は工夫を重ねたのだろう。新曲が出るたびに様々な色違いを用意して、「今日はどんな衣装だろう」という興味を引き付けていく。

事務所によると、1977~1978年は年間300本以上のテレビ番組に出演したミイとケイ。多いときは週に5本のレギュラーや冠番組を抱えていたが、それと同じくらい凄まじかったのがCM出演だ。牛乳石鹸、松下電器、神州一味噌、雪印乳業、アサヒ玩具、日清食品、日本ハム、片倉工業、学習研究社、大日本除虫菊、日本コカ・コーラなど、名だたるスポンサーと契約。文字通り、テレビで観ない日はない活躍ぶりだった。

ちなみに日本の広告費でテレビが新聞を抜いたのは1975年。カラーの普及でテレビの媒体力がさらに増したことの反映と見ていいだろう。ピンク・レディーはテレビが黄金期を迎えたときの初代CM女王だったのだ。

ピンク・レディー45周年PLUSプロジェクト稼働中!動向から目を離すな!


そんな彼女たちの軌跡が丸ごと楽しめる、おいしいアルバムがつい先日、配信を開始した。1977年12月5日に発売され、累計でミリオンセラーとなった『ベスト・ヒット・アルバム』の収録曲に、その後リリースされたシングルA面を追加した全31曲の復刻盤だ。オリジナル盤はオリコンのLPチャートで11週連続の1位を記録し、1978年の年間1位も獲得。別バージョンの「UFO」や初期シングルのカップリング曲、ミイとケイのソロ曲も網羅している。

今回の配信にあたっては最新のデジタル・リマスタリングを施し、96kHz/24bitのハイレゾ音源も同時リリース。さらにこの最新リマスターを使用した高音質SHM-CDのリイシュー盤も9月21日(水)に発売される(内容は2003年の紙ジャケットCDと同じ)。

今日でデビュー46周年を迎えたピンク・レディー。ビクターによると、今年から来年にかけて「ピンク・レディー45周年PLUS」プロジェクトとして様々な情報発信やリリースを予定しているという。モンスターデュオの動向に注目したい。

特集! ピンク・レディー伝説

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2022.08.25
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濱口英樹
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