東武東上線、西武池袋線の起点として、埼玉方面からのターミナル駅として多くの人が行きかう池袋といえば、どのようなイメージがあるのだろうか? 80年代、この街にライブハウスはなかったように記憶している。しかし、この街にも音楽はしっかり根付いていた。
西口には東武百貨店の中に現存する「五番街」というレコード店があり、インディーズの品揃えが豊富だった。パンク専門の音楽雑誌『DOLL』に売上チャートを載せ、店内にはモヒカン頭に革ジャンのパンクスを多く見かけた。そして、西口のパルコには、かつてシアターブルックの佐藤タイジがアルバイトをしていたという伝説のレコード店『オンステージヤマノ』があった。
老舗である山野楽器の系列であるこの店では、狭い店内の中に、戦前ブルースから最新ダンスミュージックのブートまで、ジャンルが細分化され分かりやすく陳列されていた。十代の終わりから僕は、この店に通っていたのだが、ブルースからロックの歴史はすべてこの店で学んだといってもいい。目当てのバンドの安価のカット盤を手に入れ、ワクワクしながら袋を抱え店から出るときの多幸感は得難いものがあった。
また、この街には名画座でお馴染みの『文芸坐』もあったので、再上映される、例えばビートルズ映画でお馴染み、リチャード・レスター監督の『ナック』や『さらば青春の光』なんかを観てオンステージヤマノに寄る。レコードを抱えて回転寿司でビールを飲むというのが当時の僕の何よりの贅沢だった。
閑話休題。そんな僕にとってレコードの街、池袋で初めてライブを観たのが、忘れもしない1986年11月27日だった。場所は豊島公会堂。ザ・ブルーハーツの『ワン・ツー・パンチ』と題されたライブの第2弾だった。
彼らにとって、おそらく単独では初のホールライブだったと思う。ここに赤いボーダーのTシャツに革ジャンを羽織って登場したヒロトは、まさに労働者階級の英雄だった。ちなみに「ワン・ツー・パンチ」の第1弾は、同年10月1日の渋谷ライブ・イン。ここでヒロトは、レコード会社と契約したことをファンに報告している。つまりメジャーデビュー直前の彼らが最もエネルギッシュな時期での公演だった。ちなみにライブ・インでの動員が711名。豊島公会堂では979名の動員を記録している。この日のセットリストは
①ブルーハーツのテーマ
②ハンマー
③少年の詩
④終わらない歌
⑤パンク・ロック
⑥スクラップ
⑦街
⑧チェインギャング
⑨ロマンチック
⑩窓をあけよう
⑪未来は僕等の手の中
⑫爆弾が落っこちる時
⑬ダンス・ナンバー
⑭NO NO NO
⑮人にやさしく
⑯リンダリンダ
⑰TOO MUCH PAIN
⑱ほんの少しだけ
⑲レストラン
⑳僕はここに立っているよ
㉑裸の王様
この豊島公会堂、ザ・ブルーハーツの他にも、当時レピッシュなどと行動を共にし、ブリティッシュビートを基盤とし、モッズシーンをメインストリームに浮上させた功労者であるロンドンタイムスの初ワンマンや、有頂天のケラが主催したナゴムレコードのイベントも行われていた。
また、宝島よりリリースされたカセットブック「BE PUNX」主催のライブもこの場所だった。確かこれは85年。ラフィンノーズ、有頂天などが出演したと記憶している。
東京でホールコンサートと言えば、中野サンプラザ、渋谷公会堂、新宿厚生年金会館などを思い浮かべる人も多いと思うが、80年代半ばから日本のインディーズに夢中だった僕らにとっては、豊島公会堂こそが、そのシーンで活躍していたバンドの終着駅だという思いがある。
この場所に再びブルーハーツが登場したのが、翌年1987年4月21日、22日二日間にわたって開かれた「花祭り」というライブだった。動員は2日間で約2000人。
ここでは、「みんなで歌おうパンクロック」をスローガンにハッピーなステージを展開していたニューロティカや、今やガレージシーンの重鎮となっている5.6.7.8’S、ザ・クラッシュ直系のガールズ・ビート・グループ UNION などがブルーハーツと共演した。
86年、87年にはライブハウスに精力的に出演し、シーンを駆け上ったブルーハーツ。この日はその集大成のライブだった。僕個人の思い出として、この日のように複数のバンドが出演するイベントで彼らの姿を見ることが多かった。そんな日々が今も脳裏に鮮明によみがえる。
ブルーハーツとライブハウスで戯れたイカしたバンドたちとの共演を終えて、その約1週間後の5月1日、彼らはメルダックよりシングル「リンダリンダ」でメジャーデビューを果たす … 。
この豊島公会堂はブルーハーツにとってもまた、ストリートバンドとして活躍した日々の終着駅であり、メジャーシーンへ扉を蹴破った場所でもあったのだ。
1952年に開館し63年もの間区民に親しまれた豊島公会堂。80年代にいくつもの伝説を残しながらも老朽化のため2016年に閉館した。オンステージヤマノもとっくになくなってしまった。僕もあまり池袋に足を運ばなくなってしまった。だからか、心の中の池袋の地図は80年代後半のまま今も変わっていない。
2019.05.01
YouTube / ladrocedro
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