以前、このRe:minderで稲垣潤一の2枚目のシングル「246:3AM」についてのコラムを書いた時、いわゆるシンガーソングライターではない稲垣潤一というアーティストはどうやって出来上がったのだろう、どなたか知っている方がいたら教えて、とお願いしたのだけど、誰も教えてくれないので自分で調べてみた。
この疑問は、稲垣潤一のようなアーティストはシンガーソングライターであるべき、という僕の勝手なイメージから始まっている。だって、楽曲を提供されて歌ういわゆる「歌手」って、アイドルや演歌、俳優が歌を出す場合のイメージだったりするじゃないですか? デビューは28歳と遅めだし、ほとんどの曲が一流の作詞家・作曲家から提供された曲で、それを歌うだけの稲垣潤一って、ちょっと異質な存在だとずっと思っていたわけだ。
小学生の時に聴いたビートルズに衝撃を受け、音楽の道を志すようになった稲垣潤一は、中学校に入るとバンド活動を始め、高校を卒業した頃には、早くも地元仙台のライブハウスなどでセミプロバンドのボーカルとして活躍する。神奈川県横須賀市や、東京都立川市にある米軍基地内のライブハウスやディスコでも活躍していた彼に、プロデビューの話が舞い込むのは1980年の夏。再び仙台を中心に音楽活動をしていた頃、ハスキーな歌声で、聴く人達を魅了しているドラマーがいるという話を聞きつけた今の事務所のスタッフにスカウトされ、プロデビューが決まったとのこと。
セミプロ時代の稲垣潤一は、主に70年代に流行っていた洋楽のカバーを歌っていたようで、音楽事務所やレコード会社は、初めからシンガーソングライターとしてではなく、歌い手として稲垣潤一をデビューさせるつもりだったということになる。なるほど納得だ。確かに大人のシティポップを歌うソングライターではない個性的なシンガー(歌手)ってそうはいない。
つまり、このジャンルは稲垣潤一の独占になる訳で、レコード会社としても一流のソングライターが手がけた作品を、あのハイトーンボイスの稲垣潤一が歌うことでより魅力的に伝えることができるのだ。企業タイアップなども取りやすく、CMソングやTV番組の主題歌などが多いのもうなずける。
1986年2月21日に発売された稲垣潤一10枚目のシングルが、そのことを良く表しているのでは、と僕は思う。A面の「1ダースの言い訳」は、三洋電機「SANYO CDミニコン W05」CMソングだし、B面の「April」は、同じく三洋電機「SANYO おしゃれなテレコ U4CD」CMソングだ。これって凄いよね。商業音楽として揶揄される場合もあるかもしれないけど、シンガー(兼ドラマー)に徹して、稲垣潤一ワールドを作り上げた彼を、僕は心から尊敬するし、今後も聴き続ける。
さて、「1ダースの言い訳」には都市伝説がある。作詞を任された秋元康は当時物凄く忙しく、他のアーティストに書いた詞を間違って稲垣潤一陣営にFAXしたらしい。間違って入ってきたFAXだと気が付いてはいたものの、その詞が素晴らしかったのでそのままもらってしまい稲垣潤一の曲になったという話。これって本当の話だろうか?
この都市伝説の真偽をご存知の方がいれば、是非教えてください!
2017.01.06
YouTube / RIHO HINOE
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