(vol.1からのつづき)
テレビではベストテン番組が花盛りの1983年。
あえて角松がやめた〈サマーリゾート路線〉を受け継いだ「杉山清貴&オメガトライブ」がブラウン管に出まくっているころ(実は、売り出し方針の違いで角松が辞めた事務所がその後釜にすえたのがオメガトライブだった)、当の角松はNYにいた。
デビュー時に貼られた「達郎のコピー」のレッテルを剥がしたい、タツローも誰も手をつけていない領域に足を踏み入れることで、自らの独自性を見いだしたい。角松は手当たり次第に先物買いをするようになる。
そうして彼がたどり着いたのは、新時代のダンスミュージック要素をいち早く取入れることだった。吉幾三『俺ら東京さ行ぐだ』(84.11発売)よりも前に、日本にラップを導入したのは角松が最初だ。
後の90’s渋谷系ラップの連中よりも6〜7年も前である。スクラッチも同様。DJがパフォーマンスとしてやっていても、あくまで遊びに過ぎず、それを正式な録音に取り入れてしまおうという発想は、日本にはまだ無かった。ましてや、全国ツアーのライブステージにターンテーブルを持ち込んで、スクラッチを見せるという行為は、日本の音楽界では誰もやっていなかった。
クラブという言葉をいち早く教えてくれたのも、毎週FM東京で流れる角松の番組だった。ハウスの源流であるガラージ。83年オープンしたばかりのライムライト(教会を改造したNYのクラブ)の内部紹介もあった。コンピュータ打ち込みサウンド(TMネットワークは84年にやっとデビュー)に先鞭をつけつつ、急速に普及するCDに対抗してアナログ12インチシングル盤を別テイクで出す小粋なはからい。
こうした要素は、名曲『Tokyo Tower』に結集する。日本のメジャーな楽曲でラップ&サンプリング&スクラッチをビシ!バシ!ゴシ!使ったのはこれが嚆矢である。
一方で、「売れる」ということはどういうことなのか? を角松は試行錯誤してゆく。
ポップスの王道を走りつつあった作曲家・林哲司を起用し、自らは制作サイドに徹し、1983年に杏里『悲しみがとまらない』を大ヒットさせる。まだ作詞家・作曲家・編曲家の分業体制が日本の音楽産業に残っていた時代、現役ミュージシャンによるプロデュース自体が珍しかった。小室哲哉よりも小西康陽よりも、はるかに前である。
だが、早すぎる。すべてが器用すぎる。
しかも、そこにとどまろうとしない。
角松から3〜4年も遅れて久保田利伸、横山輝一といったフォロワーが出て来たときには、すでに角松の音楽巡礼はNYから別の土地へと向っていた。
その置き土産、という訳でもなかろうが、それまで培ったノウハウを余すところなくブチ込んだ、オールナイトニッポンのジングルが残されている。さはさりながら、J−POP界の開発屋=角松敏生よ、どこへ行く?
(つづく)
2016.05.06
YouTube / zosun1966
YouTube / wat1965
YouTube / pokopoko117 (特に1分58秒からのテイクは最高!)
YouTube / MICHAELMOSBURGER (角松のDJ講座 / NHK教育ベストサウンドの超レア映像)
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