11月21日

圧倒的ツインボーカル!クリスタルキング「大都会」1979年はアイドル不在だった?

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アイドル不在、“ヒットした曲がランクインした” 時期


かつて、アイドル不在の時代があった。

ピンク・レディーの人気に陰りが見え始めた1979年初頭から、田原俊彦と松田聖子が華々しく登場してオリコン1位を取る1980年秋口までの1年8ヶ月がそう。78年暮れ、『紅白』で双方トリを務めた山口百恵とジュリーは国民的歌手へと立ち位置を変え、新御三家は互いに脱・アイドルの道を模索していた。その間、TBSの『ザ・ベストテン』は、当時流行りのニューミュージック勢をはじめ、多彩な顔触れが毎週のようにランクインした。

松山千春、ゴダイゴ、アリス、八神純子、ツイスト、円広志、甲斐バンド、さだまさし、ジュディ・オング、サザンオールスターズ、岸田智史、水谷豊、サーカス、チューリップ、桑名正博、ばんばひろふみ、久保田早紀、クリスタルキング、オフコース、渡辺真知子、海援隊、シャネルズ、竹内まりや、もんた&ブラザーズ、長渕剛、ロス・インディオス&シルヴィア―― etc.

見方を変えれば、それは “ヒットした曲がランクインした” 時代でもあった。

え?「ベストテンだから、ヒット曲がランクインするのは当然だろう」って? いや、本当にそうだろうか。こう言っては何だが、アイドルの楽曲がランクインした場合、それは楽曲が優れているからランクインしたのか、アイドルの人気が楽曲をランクインさせたのか―― どちらだろうか。

ベストテンは、毎年末に「豪華版」と称して “年間ベストテン” を100位から順に発表していた。その際、アイドルによく見られた現象が、その年に出したシングル3〜4曲が、比較的近い順位に集中すること。それ、要はファンの固定票なんですね。もちろん、どんな歌手にもファンは存在する。でも、それが岩盤のように強固なのが、アイドルファンの特徴。極端な話、彼らはシングルのパッケージで好きなアイドルが微笑んでくれたら、中身がなくても買ってくれる――。

ところが、そんなアイドルがある時期、パッといなくなった。それが、1979年初頭から80年秋口にかけてのアイドル不在の時代。その時期、『ザ・ベストテン』は、先にも申し上げたように、“ヒットした曲がランクインした”――。

“大都会”とは東京ではなく福岡、クリスタルキング「大都会」


逆に言えば、その時代―― 歌い手側としては、楽曲が優れていれば、一夜にしてスターになれた。毎週のように新顔が登場したのは、そういうことである。その中に、彼らもいた。

奇しくも、今から43年前の今日、1979年11月21日にリリースされた「大都会」を歌った、クリスタルキングである。

 ああ 果てしない
 夢を追いつづけ
 ああ いつの日か
 大空かけめぐる

作詞:田中昌之・山下三智夫・友永ゆかり、作曲:山下三智夫――。有名な話だが、“大都会” とは、東京のことではなく、九州・博多、つまり福岡を指している。リリースされた1979年当時の福岡市の人口は107万人。東京の10分の1だ。もっとも、これは相対的な話で、クリスタルキングは元々、佐世保の米軍基地の将校クラブや米軍相手のディスコなどで演奏していた。当時の佐世保の人口は約25万人―― そういうことである。

クリスタルキングは1971年、リーダーの吉崎勝正(現・ムッシュ吉﨑)を中心に佐世保で結成された。そこへ、同じく佐世保で活動していたバンド「クロスロード」から田中昌之ら3人が加わり、初期のオリジナルの7人体制に。吉崎(低音)・田中(高音)のツインボーカルを前面に、作曲もこなす山下三智夫(ギター)と、今給黎博美(キーボード)、それに、中村公晴(ピアノ)、野元英俊(ベース)、金福健(ドラム)の編成である。

彼らの佐世保時代は、ベトナム戦争の最中だった。佐世保はアメリカ軍にとって重要な補給基地であり、多くの兵士たちが出撃した。7人は明日、戦場へ赴く兵士たちを相手に演奏することもあり、そんなシビアな環境が彼らの音楽の腕を磨いていった。

1975年、クリスタルキングは博多へ上陸する。彼らを好待遇で迎え入れたのは、城山観光だった。当時、中洲随一と言われた博多・城山ホテルにある高級ダンスホール「スターダスト」や、同社が運営する先進的ディスコ「VOナイトパレス」で毎夜、彼らはパフォーマンスに明け暮れた。その時、メンバーたちが抱いた思いが、後に「大都会」へと繋がる。不夜城・中洲は歓楽客であふれ、那珂川はネオンがきらめき、タクシーの行列は中洲大通りを占拠した。クリスタルキングの7人は、“大都会” の期待と不安に押しつぶされそうになった。

 裏切りの言葉に
 故郷を離れ わずかな望みを
 求め さすらう 俺なのさ
 見知らぬ街では 期待と不安が
 ひとつになって
 過ぎゆく日々などわからない

だが、彼らはプレッシャーをはねのけ、更なる高みを目指すことを選択する。メジャーデビューである。

「第18回ポピュラーソングコンテスト」でグランプリ、そしてデビュー


その道のりは平たんではなかった。1976年、7人はそのファンキーなステージが評判を呼び、まずテイチクから声がかかった。そして、当時ニューヨークのディスコシーンで話題のキャンプ・ガローレをカバーした「カモン!ハッスル・ベイビー」でデビューする。しかし―― ソウルフルなナンバーは彼らの持ち味であるツインボーカルを生かせず、このデビューは不発に終わる。

次に彼らが目指したのが、77年に世良公則&ツイストが「あんたのバラード」で一躍脚光を浴びたポプコン(ヤマハポピュラーソングコンテスト)だった。当初、プロのミュージシャンは出場できないと諦めていた彼らだったが、知人の助言で誤解を解き、急遽曲を作って78年、『第16回ポプコン』に応募すると―― あれよあれよと、九州地区大会グランプリ、つま恋の本選で入賞を果たした。この時の楽曲が、後に4thシングルとなる「明日への旅立ち」(作詞・作曲:今給黎博美)である。

突如、全国に名前が知れ渡ったクリスタルキング。彼らを取り巻く状況は一変し、複数のレコード会社から声がかかる。だが、いずれもデビューには至らなかった。ちなみに、同回でグランプリに輝いたのが、円広志サンの「夢想花」である。同曲はその後、「世界歌謡祭」でもグランプリを獲得。その勢いのままシングルがリリースされ、オリコン最高4位とスマッシュヒット――。



「夢想花」との差は、メロディとインパクトだった。そこで、リーダーの吉崎サンは考えた。

今回は何も計算しないで応募した楽曲で入賞した。ならば、次は計算して、強いメロディと、僕らの武器であるツインボーカルを生かせる楽曲で勝負しよう。そうだ、田中の高音をアタマに持ってきて、審査員を驚かせよう――

かくして、「大都会」が出来上がる。作曲は、後に「蜃気楼」「セシル」「愛をとりもどせ!!」なども手掛けるグループ随一のメロディーメーカー山下三智夫サンが担当した。タイトルは当時、日本テレビで放映されていた石原プロ制作の刑事ドラマ『大都会』シリーズから着想し、前述の通り、彼らにとっての大都会―― 博多をイメージして詞が書かれた。

 交わす言葉も寒い この都会(まち)
 これも運命(さだめ)と 生きてゆくのか
 今日と違うはずの 明日へ
 RUN AWAY RUN AWAY 今 駆けゆく

1979年10月7日、静岡県のつま恋エキジビションホールにて行われた『第18回ポピュラーソングコンテスト』の本選会で、同曲はグランプリに輝く。続いて、11月11日の「世界歌謡祭」でもグランプリ。そして同月21日―― クリスタルキングはキャニオン・レコードから「大都会」でデビューする。

田中昌之の圧倒的なハイトーン・ヴォイス、「スリーオクターブの美声」


そのインパクトは予想以上だった。まず、中村公晴サンのピアノのイントロからリスナーを楽曲の世界へと引きずり込んだ。そして、歌唱に入る直前―― 金福健サンのドラム2拍が地鳴りのように唸る。その瞬間、ツインボーカルの向かって右側、カーリーヘアの田中昌之サンが歌い出す。

 ああ 果てしない
 夢を追いつづけ
 ああ いつの日か
 大空かけめぐる

その、圧倒的なハイトーンヴォイス。俗に「スリーオクターブの美声」と呼ばれるほど、完璧な歌唱力だった。ピアノのイントロに高音の入り――。恐らく、曲の構成は1975年にリリースされたクイーンの「ボヘミアンラプソディー」をオマージュしたものだろう。クイーンをキングがリスペクトしたとなると、ちょっといい話に聴こえる(笑)。

ところが、これでもうお腹いっぱいなのに、同曲はここから更に聴かせてくれる。今度はツインボーカルの向かって左側、パンチパーマに “グラサン” のムッシュ吉崎さんの出番である。

 裏切りの言葉に
 故郷を離れ わずかな望みを
 求め さすらう 俺なのさ

一転、低音のダミ声が響く。田中サンのパートが大都会の希望を表しているなら、こちらは大都会のリアルな部分に光を当てる。その対比はもはや物語的であり、一流のエンターテイナーのショウを思わせる。それにしても、こんなに個性的で対照的なツインボーカルは、後にも先にもクリスタルキングを置いて他にない。

リリースの翌年、1980年1月28日――「大都会」は久保田早紀の「異邦人」の後を受けて、オリコン1位になった。そして6週間その座を守り、海援隊の「贈る言葉」にその座を譲った。一方、『ザ・ベストテン』でも1月31日に1位に立つと、こちらは8週間、その座を守った。

クリスタルキングはスターになった。本当に、あのポプコンのグランプリで、一夜にして7人を取り巻く風景が変わった。圧倒的なツインボーカルのクオリティの高さに加え、メンバーの山下三智夫サンが紡いだメロディの美しさも際立っていた。気がつけば、同曲はミリオンセラーになっていた。

それから9年半が過ぎた、1989年10月5日―― この日、『さよならザ・ベストテン』が放映され、偉大な歌番組はその12年の歴史に幕を閉じる。TBSのGスタジオには、かつての出場歌手らが呼ばれ、皆で昔の映像を見て、思い出にひたった。その中に、クリスタルキングの姿もあった。田中昌之サンは既に同グループを脱退していたが、この日はムッシュ吉崎さんと同じテーブルにいた。カーリーヘアは相変わらずである。

モニターに、かつての「大都会」が流れ、黒柳サンがメンバーのいるテーブルにやってきた。自然と、その視線は田中サンのほうに向けられる。

黒柳「あなたは、あの高い声は相変わらず?」
田中「まぁ、辛うじて。最近、酒焼けしてますけどね」

スタジオにドッと笑い声。田中サン自身も笑っていた。僕ら、お茶の間も笑っていた。

彼が、この4ヶ月前に草野球で喉に打球を受けて高音が出なくなったことを僕らが知るのは、まだ先の話である。

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2022.11.21
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カタリベ
1967年生まれ
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