1993年 2月25日

新・黄金の6年間《1993-1998》小室哲哉が本格始動!90年代最大のヒットメーカー

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新・黄金の6年間 ~vol.1
■ trf「GOING 2 DANCE」
作詞:T.KOMURO, YŪKI
作曲:T.KOMURO
発売:1993年2月25日

あらゆる場面で世の中が混とんとしていた1989年


1989年9月、『ザ・ベストテン』(TBS系)が終わった。

―― いや、終わったのはベストテンだけじゃない。その年、昭和天皇が崩御され、64年続いた昭和も終わった。昭和のスター、手塚治虫と美空ひばりと松下幸之助も後を追うように亡くなった。奇しくも日本経済も同年、日経平均株価が史上最高値を付けるも、翌90年からバブル崩壊。右肩上がりの昭和のビジネスモデルも終わりを告げた。

世界に目を向けると、1989年―― 東西冷戦の象徴、ベルリンの壁が崩壊した。更にその2年後、東の横綱・ソ連も崩壊。東西冷戦が終わった。

そうそう、ベストテンが終わった翌90年、長年のライバル『歌のトップテン』(日本テレビ系)と『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)も姿を消した。更に、大晦日の二大音楽の祭典も権威を失う。89年、『NHK紅白歌合戦』は二部制になり、視聴率が50%を割ると、翌90年、今度は『レコード大賞』(TBS系)が「大賞」をポップス部門と演歌部門に二分し、視聴率は12%台へ急落した。

そう―― 1989年を起点に、それまで積み上げてきた世界や日本の常識が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちたのである。東西冷戦の終結で、世界を覆っていたイデオロギー対立の空気は行き場を失い、バブル崩壊で人々は次の一手を模索し始めた。あらゆる場面で世の中が混とんとしていた。

「新・黄金の6年間」の幕開


そして、迎えた1993年――。

その年、昭和の価値観とは違う、新しいスタイルのニューカマーたちが立ち上がった。かつての「黄金の6年間」(1978年〜83年、エンタメ界がクロスオーバーで盛り上がり、多くの新人が輩出された時代)の再来を思わせる「新・黄金の6年間」(1993年〜98年)の幕開けだ。当コラムは、その第1回である。

思えば、93年―― 地方のホームタウン制を掲げる「Jリーグ」が誕生し、熊本県知事から国政に転じた細川護熙氏が衆議院議員初当選で首相になった。演劇界の鬼才・三谷幸喜が連ドラの脚本家でデビューし、木村拓哉はドラマの脇役ながら、早くもスターの片鱗を覗かせた。岩井俊二はテレビドラマで異例の映画界の新人監督賞を受賞し、生身の人間が登場せずCGだけで司会進行する音楽番組が始まった。

―― そう、彼らは圧倒的に新しかった。そして幕明けた新時代は、主にエンタメ界を中心に盛り上がり、1998年まで6年間に渡って栄華を誇った。最終的に、天才歌姫・宇多田ヒカルの登場で、時代は次のステージへ移行する。

「新・黄金の6年間」の共通点とは?


新・黄金の6年間のニューカマーたちには、いくつかの共通点があった。それは――「スモール」、「フロンティア」、そして「ポピュラリティ」である。

「スモール」とは、かつて広告の父・オグルヴィが、フォルクスワーゲン・ビートルの広告に用いたコピー「Think small」(小さいことはいいことだ)にも通じる概念。要は、大きな組織で動くのではなく、小回りの利く小さな部隊で創造的に行動する。連ドラ作りにおいて、外野を排除し、プロデューサーと脚本家の最小ロットでホンとキャスティングを練り、次々と名作を生み出した黄金時代がこれに該当する。

「フロンティア」とは、既成の概念に捉われず、新天地へ乗り出す気概である。例えば、80年代が東京の時代なら、90年代からは地方の時代と言わんばかりに、地域に根差したホームタウン制で盛り上げを図ったJリーグに、そのスピリットを感じる。そのモデルは、2000年代にプロ野球のパ・リーグにも継承される。

「ポピュラリティ」とはすなわち大衆性、つまりベタである。一部の人たちにしか理解されないセンスや排他性を楽しむカルチャーではなく、誰もが理解でき、共感できるクリエイティブ。ベタを恐れず、温故知新に向き合うカルチャーが、90年代の音楽市場に多くのミリオンセラーをもたらした。

90年代の音楽界の最大の功労者、小室哲哉


そして―― そんな90年代の音楽界の最大の功労者が、栄えある「新・黄金の6年間」の第1回の主役。1993年から98年の6年間で最高セールスを記録した男、小室哲哉その人である。奇しくも今日、2月25日は、彼がプロデューサーとして最初に手掛けたダンス&ボーカルグループ “trf(現・TRF)” が「GOING 2 DANCE/OPEN YOUR MIND」でデビューした日。今から30年前の1993年の出来事である。

話は少しばかり、さかのぼる。

まだ、TM NETWORKの活動が主体だった1988年―― 小室哲哉サンは単身ロンドンへ渡り、半年間ほどアパートメントを借りて過ごしたことがあった。そこでの体験が、後のプロデュース業進出のヒントになる。

ひとつは、当時のイギリスの最先端のダンスミュージックのカルチャー「レイヴ」に触れたこと。レイヴとは、不定期に郊外の倉庫などを借りて行うアンダーグラウンドなパーティで、一晩中、ダンスミュージックを流して過ごすという。ちなみに、trfの「r」は、レイヴの頭文字である。

そして、もうひとつが、当時、カイリー・ミノーグをプロデュース中のイギリスを代表する音楽プロデューサー集団「SAW(ストック・エイトキン・ウォーターマン)」の仕事ぶりを間近で見られたこと。そこで、スタジオワークの面白さに目覚め、更に戦略的に巨大音楽市場が生み出されていることに驚愕する。



“日本初のテクノ・レイヴ・ユニット”、trfプロジェクトが始動


帰国後、小室サンは日本の音楽シーンで、自分がこれから何をやるべきかの方向性がぼんやりと見えてきたという。そんな時に出会ったのが、新興のレコード会社「エイベックス」の松浦勝人サンだった。時期は90年代初頭。まだ、エイベックスは町田にあり、社員も30人ほどしかいなかった時代である。松浦専務はこう、小室サンに切り出した。

「TMNの楽曲をエイベックスでリミックスし、アルバムにしませんか」

―― そのアルバムは、TMNが所属するEPICソニーとの間で、権利関係でモメたものの、EPIC創業者の丸山茂雄サンの計らいで、エイベックスから1992年9月に『TMN Song Meets Disco Style』のタイトルで発売。スマッシュヒットとなるが、なぜか小室サンの表情は冴えなかった。

「TMNというのは、出せばなんでも売れちゃうんだよ。TMNの消しゴムだって、出せば15万個は売れるんだ」

―― かの有名な「15万個の消しゴム」論である。TMNの固定ファンは頼りになるものの、正直、伸びしろがないと小室サンは嘆いた。だが、これに松浦専務が逆提案する。

「だったら、新人をプロデュースしたらどうです?」



かくして、trfプロジェクトが始動する。小室サンの頭の中には最初から、DJ、ダンサー、ボーカリストからなる “日本初のテクノ・レイヴ・ユニット” のアイデアがあったという。つまり、ディスコ映えするメンツである。ゆえにメンバーはディスコ界隈から調達した。その時、サポートしてくれたのが、当時、マハラジャのNOVA21系列の広告代理店の社員で、後にエイベックスの副社長になる千葉龍平氏だった。

まずDJは、既にリミックス・ユニット「The JG's」で活躍していたDJ KOOにオファー、ダンサーは当時マハラジャに出入りしていたSAMを中心としたダンスグループ「MEGA-MIX」が選出され、ボーカリストは、小室サン自身がマハラジャ全店で開催していたイベント「TKトラックスナイト」のダンスコンテストで爪あとを残した元ZOOのYU-KIに白羽の矢が立った。

ユニット名の「trf」の由来は、TK RAVE FACTORYの頭文字である。松浦専務の命名と言われる。初お披露目は、1992年12月25日―― 新山下の倉庫跡を利用したディスコ「横浜ベイサイドクラブ」にて行われたレイヴ・イベント『TK RAVE FACTORY』だった。かつて小室サンが渡英した際に洗礼を受けた、アンダーグラウンドなレイヴ・パーティの夢がここに叶う。イベントは翌月にかけて散発的に計9日間開催され、6,000人以上を動員した。

1993年2月25日、小室哲哉サンが初プロデュースするダンス&ボーカルグループのtrfは、「GOING 2 DANCE」でデビューする。ダンスミュージックの中でも洋楽色の強い、ハードコアテクノだった。プロモーションは全国のマハラジャ店を動員し、DJがヘビーローテーションでかけまくった。インディーズっぽく、アンダーグラウンドで売る―― それが小室サンの戦略だった。事実、ディスコの常連客の間では徐々に話題になった。しかし一方、セールスは伸び悩み、一般層にはほとんど浸透しなかった。



trfに託した小室哲哉、真のプロデュース力とは?


少々前置きが長くなったが、実は小室哲哉サンの真のプロデュース力が発揮されるのは、ここからである。ここまでは全てプロローグと言っても過言じゃない。

彼はデビュー曲の反応が一巡したタイミングで、直ちに軌道修正を図った。このあたりの小回りの良さは見事である。セカンドシングルは、ダンスミュージックのテクノ感を残しつつも、サビは耳馴染みのよいポップなメロディを当てる。プロモーションも、風営法で夜12時に閉まるディスコから、当時、通信カラオケで勢いを増しつつあったカラオケショップに軸足を移す――。

その際、小室サンは一計を案じた。エイベックスを通じてカラオケショップに営業をかけ、カラオケの背景に流す映像を、ミュージックビデオとして使ってもらうように要請したのだ。それは、これまでレコード会社が誰も手を付けなかった秘策だった。小室サンはカラオケボックスの部屋をプライベートなディスコ空間に変えようとしていた。



小回りの効く制作環境、大衆性を意識した楽曲構成、そしてカラオケボックスという新たな販路の開拓―― まさに、それは「新・黄金の6年間」の幕明けに相応しい、新時代のスターの登場を予感させた。レコーディングの際、小室サンはメンバーにこう宣言したという。

「ここからはもうアンダーグラウンドじゃないからね」

セカンドシングル「EZ DO DANCE」がリリースされるのは、デビューから4ヶ月後の同年6月21日である。

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2023.02.25
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カタリベ
1967年生まれ
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