1月19日

1978年1月19日「ザ・ベストテン」放送開始!それは黄金の6年間が幕開けた瞬間!

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歌謡曲全盛期に君臨したTBSプロデューサー、ギョロナベこと渡辺正文


作詞家のなかにし礼サンの小説に、かつてTBSの音楽番組に君臨した渡辺正文サン―― 通称・ギョロナベさんを描いた『世界は俺が回してる』(KADOKAWA)がある。

ギョロナベさんとは、民放の父と呼ばれた電通の第4代社長・吉田秀雄氏の甥っ子で、幼少期から裕福な家庭で何不自由なく育ち、縁故でTBSに入り、生涯、自分のやりたい仕事―― 音楽番組しかやらなかった御仁である。しかも、カネとオンナに貪欲と来た。

当時、テレビ局のプロデューサーが音楽番組を一本担当したら、家が一軒建つとまで言われたが、一軒どころじゃなかった。新人歌手や女優の卵など、目を付けた女性は片っ端から抱いた。今のテレビマンが同じことをしたら、三日と会社にいられないだろうが、良くも悪くもおおらかな時代だった。

そんなギョロナベさんだけど、仕事だけは滅法できた。だから人間は面白い。彼の代名詞とも言える仕事が、1972年から92年まで開催された世界規模の音楽祭「東京音楽祭」である。そこへフランク・シナトラやサミー・デイビス・ジュニアを呼べたのは、ひとえに彼の華麗なる人脈だった。

時代は変わる… これまでにない新しい音楽番組を!


ギョロナベさんが担当したレギュラーの音楽番組は、彼の嗜好を反映したアダルトな演出が多かった。有名なのが、1974年4月にスタートした『サウンド・イン “S”』だ。佐良直美や伊東ゆかりらを司会に、出演者はドレスやタキシードに正装。ビッグバンドをバックに、ジャズやアメリカンポップスなどの洋楽を披露した。

76年10月に始まった『トップスターショー・歌ある限り』も同様に、アダルト路線だった。こちらは、当時のTBSのGスタジオに観客を入れ、俳優の二谷英明サンと同局の久米宏アナ(当時)のW司会で、人気歌手たちが持ち歌に限らず、歌番組に出ないフォークやニューミュージック系の楽曲なども披露した。トークの時間も長く、全体にショウを意識した作りだった。



ところが、同番組は視聴率が低迷し、2年目の77年の夏には、同年限りの終了が決まる。早々に後継番組は同じく音楽番組で行くことになったが、番組フォーマットを巡り、2つの意見が対立した。

1つは、ギョロナベさんが唱える、これまで通りにプロデューサーが出演者のキャスティングを決める方式である。そして、もう1つが、日本の音楽番組史上類を見ない、楽曲のランキングによって出演者を決めるスタイル。こちらは入社10年目のディレクターの山田修爾サンら若手スタッフたちの総意である。これまでにない、新しい音楽番組を作りたい―― それが彼らの願いだった。

連日、会議を重ねても、なかなか結論が出ない。そんな時、秋の人事で新しく制作局長に就任した中村紀一氏が、新番組の企画が紛糾している話を聞きつけ、仲介へと乗り出した。「これからは若い世代に任せた方がいいだろう」―― ツルの一声だった。

かくして、1977年秋、翌年1月から始まる新番組が決定する。枠は、木曜夜9時―― そう、『ザ・ベストテン』である。

プロデューサーのキャスティングではなく、視聴者が本当に聴きたい曲を!


時代の変わり目には、それを象徴するテレビ番組が登場する。僕は、このリマインダーで2019年1月から「黄金の6年間」と題したシリーズ連載をしているが、その時代の先陣を切るエピソードが、まさに『ザ・ベストテン』だった。

黄金の6年間とは、1978年から83年までの6年間を指す。東京が最も面白く、猥雑で、エキサイティングだった時代である。街を始め、音楽もテレビも小説も映画も広告も演劇も―― 様々なエンタメのジャンルが垣根を超えて交わろうとした時代。そんな混沌とした時代の空気は、83年の東京ディズニーランドの開園をもって、1つの完成形を見る。手前味噌で恐縮だが、そんな6年間をまとめた本が、昨年出版した拙著『黄金の6年間 1978-1983~素晴らしきエンタメ青春時代』(日経BP)である。

少々前置きが長くなったが、今日―― 1月19日は、今から45年前の1978年に、そんな『ザ・ベストテン』がスタートした日にあたる。まさに、新しい時代の扉が開かれた瞬間だった―― と言いたいところだが、実はその前の週に『ザ・ベストテン前夜祭』が放映されている。いわば、エピソード0。そして、これからお話しする、この前夜祭と本放送を巡る物語の2人の主人公が、先に登場したギョロナベさんこと渡辺正文サンと、山田修爾サンである。

山田サンがランキング形式にこだわったのは、彼なりの “勘” だった。それまでのプロデューサーがキャスティングを決める方法だと、芸能界のしがらみとか、レコード会社の事情とか、業界を取り巻く様々な “大人の事情” に縛られる。そこに利権が生まれる。それゆえ、音楽番組を担当すると、家が一軒建つとまで言われ、その権化が―― ギョロナベさんだった。しかし、山田サンは、これからは視聴者が本当に聴きたい曲だけで構成された番組が求められると踏んだのだ。

そう、黄金の6年間とは、様々なエンタメのジャンルが垣根を超えてクロスオーバーしただけではなく、受け手と作り手(送り手)の垣根が、初めて取り払われようとした時代であった。まだ、マーケティングという概念が一般化する前の時代である。

黒柳徹子の条件、それは絶対にランキングに嘘を付かないこと!


1978年1月12日、夜9時―― 記念すべき『ザ・ベストテン』の“前夜祭”が始まった。司会は黒柳徹子サンと、前番組から引き続き担当するTBSの久米宏アナである。黒柳サンは、山田サンから司会のオファーを受けた際、引き受ける条件として「絶対にランキングに嘘を付かないこと」と注文を付けたそう。番組の生命線とも言える “幹” を一発で見抜く辺り、やはり只者じゃない。この辺りの勘の良さが、長く芸能界の第一線で活躍されている所以だろう。

意外と、『ザ・ベストテン』に前夜祭があったことを知らない人も多いかもしれない。僕自身、観たのは観たが、その記憶がほとんどない。久米サンがランキングボードを紹介したり、レコード売上やハガキのリクエスト枚数などの得点の仕組みを説明しているシーンは断片的には覚えているが、全体の印象がない。その理由は、このコラムを書くにあたって改めて当時の出演者や楽曲のデータを紐解いて、思わず大きく頷いてしまった。圧倒的に、古いのだ。

ちなみに、以下が前夜祭で歌われた楽曲と、出演者である。番組前半では、過去10年間の年間オリコン1位の楽曲を、ゲスト歌手たちが持ち回りで歌った。

■ 昭和43年 恋の季節(ピンキーとキラーズ) / 小柳ルミ子
■ 昭和44年 港町ブルース(森進一) / 松崎しげる
■ 昭和45年 黒ネコのタンゴ(皆川おさむ) / 郷ひろみ
■ 昭和46年 知床旅情(加藤登紀子) / 山口百恵
■ 昭和47年 瀬戸の花嫁(小柳ルミ子) / 小林旭
■ 昭和48年 女のみち(宮史郎とぴんからトリオ) / 野口五郎
■ 昭和49年 なみだの操(殿さまキングス) / 殿さまキングス
■ 昭和50年 シクラメンのかほり(布施明) / 西城秀樹
■ 昭和51年 およげ!たいやきくん(子門真人) / 桜田淳子

そして番組後半では、前年の昭和52年のベストテンを披露した。10位が松崎しげるの「愛のメモリー」、8位が清水健太郎の「失恋レストラン」、栄えある1位は森田公一とトップギャランの「青春時代」だった。

―― なんだろう、この前時代感(笑)。
いや、どれもいい曲なんだけど、『ザ・ベストテン』の空気感には今ひとつ合わないというか……。ある歌手の楽曲を、別の歌手が歌う手法はギョロナベさんが好んだ演出で、明らかにこの前夜祭は彼の匂いがする。当時の僕の記憶がほとんどないのも、直感的に「あっ、これは僕の見たい番組じゃない」と思ったからかもしれない。

ところが―― この前夜祭の視聴率は21.4%と、思いのほか高かった。やはり、当時の人気歌手たちが総出演したからと思われる。

これぞ視聴者が望むリアリティ「ザ・ベストテン」本放送スタート!


そして翌週、1月19日―― いよいよ『ザ・ベストテン』の本放送が始まる。もやは有名な話だが、第1回放送では、大スター山口百恵が11位とランク外で出場を逃し、4位の「わかれうた」の中島みゆきもレコーディングを理由に出場辞退と、いきなり出鼻をくじかれた。ランキングに嘘をつかなかった結果である。放送前、百恵サンが出場しないことを知ったギョロナベさんは、山田修爾サンにランキングを入れ替えるように要求するが、山田サンは頑として断った。それが災いしたのか―― 視聴率は前週から5%近くも下がり、16.8%だった。



前夜祭と本放送の数字を見比べ、ドヤ顔のギョロナベさんと、落ち込む山田サンの姿が想像できる。ただ、この数日後、視聴者から寄せられたリクエストのハガキの中に、山田サンは次のようなコメントを見つける。彼の著書『ザ・ベストテン』(ソニー・マガジンズ)から引用させてもらう。

「百恵さんがランクインできなかったのは残念だけど、その分、こうしてハガキを出すことで次の放送には必ずランキングされるよう私たちファンも頑張ります」

「4位に中島みゆきがランキングされて、出演を期待していたら、ミラーゲートだけが映し出されてガッカリ。だけど、出演しないことをそのまま伝えるのは、すごく新鮮な感じでした。ランキングを正直にしていると思いましたね」

この瞬間、落ち込んでいた山田サンの脳裏に一筋の光明が差したという。そう、それは「黄金の6年間」がまさに幕を開けた瞬間でもあった。

1月12日の前夜祭は、消えゆくろうそくの炎の最後の灯火だったのかもしれない。ギョロナベさんが輝いた時代の――。


※2020年1月12日に掲載された記事をアップデート

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カタリベ
1967年生まれ
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