新時代の到来? 松田聖子の独走を止めた小室哲哉
1990年代に入ると、日本の音楽は “J-POP” とカテゴライズされるようになり、音楽業界は新時代に突入していきました。小室哲哉が楽曲制作した “小室系” というジャンルが世の中を席巻し、数あるヒット曲が “エイベックス” からリリースされていました。
シングル盤は “8cm CD” という短冊形のジャケットで発売されていたのですが、今の20代の若者の大半はこの “8cm CD” の存在を知らなそうなので、90年は遠い昔になってしまったのかもしれませんね。しかし、多くのミリオンセラーが生まれたのは90年代であり、音楽ソフトの売り上げがもっとも高かったのも90年代だったのです。
小室哲哉の最初の提供曲は1985年に発売された岡田有希子のアルバム『十月の人魚』に収録された「Sweet Planet」「水色プリンセス ―水の精―」という曲で、翌年に渡辺美里に提供した「My Revolution」の大ヒットで作曲家として一躍有名になります。
80年代後半の小室哲哉は “TM NETWORK” の活動の他にも、ソロアーティストとしても大活躍していて、1989年に発売されたシングル「GRAVITY OF LOVE」は、なんと松田聖子の連続25曲1位の記録をストップさせた、チャートの歴史に残る記念すべき曲なのです。
80年代を代表する松田聖子が、90年代を席巻した小室哲哉に記録を阻止されたのが1989年。そんな小室哲哉も、世紀末に現れた宇多田ヒカルの才能を前にして、“引退” を考えたそうですから、才能というのはこうやって次世代にバトンタッチされていくのかもしれませんね。
レイブに傾倒した小室哲哉、trfを結成
“エイベックス” は、1989年に「avex trax」として設立され、海外のダンスミュージックを中心に卸販売していたレーベルでした。
1990年1月にあの有名な『SUPER EUROBEAT VOL.1』が発売され、伝説のディスコ「ジュリアナ東京」のコンピレーションを発売していたのも「avex trax」だったのです。
1992年2月にジュリアナ東京の初のコンピレーション『JULIANA'S TOKYO TECHNO RAVE PARTY』が発売されています。タイトルに “RAVE” というワードが入っていますが、この “レイブ” は音楽のジャンルではなく「ダンス音楽を一晩中流す大規模な音楽イベントやパーティー」のことで、言葉の発祥はイギリスのようです。
この “レイブ” というスタイルに傾倒した小室哲哉は、初の全面プロデュースユニットとしてtrfを結成することになります。この “trf” というのは、
Tetsuya komuro Rave Factory
―― の略で、あくまでも小室哲哉のためのグループだったのです。
「ボーカルはテクノハウス以外のダンスミュージックにも対応できるかどうか」「DJはロックの持つエネルギーがわかる人かどうか」という厳しい条件により選定されたそうですが、すでにDJチームやダンスのコンテストで活躍していた、ラップ・ヴォーカル・DJ・サウンドクリエイト担当、リーダーのDJ KOO、メインヴォーカル担当のYŪKI、ダンサーのSAM、ETSU、CHIHARUという実力派が選ばれ、今から約30年前の1992年9月にグループは結成されました。
クラブ文化が主流になる以前に打ち立てられた壮大なコンセプト
そして、trfは1993年2月25日、エイベックス邦楽第一弾アーティストとして、シングル「GOING 2 DANCE / OPEN YOUR MIND」、アルバム『trf 〜THIS IS THE TRUTH〜』でデビュー。
グループのコンセプトは「日本人でプロダンサー・DJがいるグループ。そのグループがライブ会場にいるだけでその場がディスコになる」という壮大なものでした。つまり、まだクラブ文化が主流になる前の、あくまでも巨大ディスコによるパフォーマンスを想定したグループだったわけです。ある意味、trfのデビューが “小室伝説” のスタートであり、“エイベックス伝説” の始まりだったのかもしれません。
デビューシングル「GOING 2 DANCE / OPEN YOUR MIND」のジャケットには「TKレイブ ファクトリー」とで大きく印刷されているので、最初はあくまでも小室哲哉の名前が前面に出たプロジェクトだったということがわかります。意外なことに、このシングルは100位圏内にチャートインしておらず、セカンドシングル「EZ DO DANCE」がCMソングに起用され、ようやくグループ名が広く知れ渡るようになっていきました。
デビュー当時から順調に売れていたと記憶していたグループですが、TOP10入りを果たしたのは意外なことに5枚目のシングル「寒い夜だから…」(最高位8位)からで、6枚目のシングル「survival dAnce 〜no no cry more〜」で、ようやく初の1位を獲得しています。その後も4枚のシングルが1位に輝いていますが、この時期から、小室哲哉はtrf以外のプロデュースも多く手がけるようになります。
小室プロデュースのピークは1996年で、特に4月15日付のチャートでは、1位から5位まですべてが小室作品という快挙も成し遂げています。ちなみにその5曲というのが、
1位:Don't wanna cry / 安室奈美恵
2位:I'm proud / 華原朋美
3位:FREEDOM / globe
4位:Baby baby baby / dos
5位:Love & Peace Forever / trf
―― というラインナップでした。
シティポップの次は“小室系”?
しかし、当然ブームというのはいつまでも続かないわけで、1998年頃には小室ブームもだんだん終息に向かっていきます。先ほど宇多田ヒカルのことを書きましたが、「Automatic」を最初に聴いた時に、あまりの衝撃に “引退” という文字が脳裏をかすめたそうですから…。
小室ブームが去っていくのと並行をして、trfの売り上げも当然落ちて行ったわけですが、もともとtrfというグループはプロ集団だったわけで、その後も皆さん継続して活躍をしています。2012年に発売されたエクササイズDVD『EZ DO DANCERCIZE(イージー・ドゥ・ダンササイズ)』は翌年にはミリオンセラーを記録していますし、現在でも時折TVの音楽番組に出演していますが、当時と全く変わらないスタイルでパフォーマンスをする姿には尊敬の念すら覚えます。
今年、ユーミンのラジオ番組に小室さんがゲスト出演した時に、90年代のエピ―ソードをお互い語っていましたが、二人が90年代という時代を戦ってきた “戦友” のように思えてきて、なんだかジーンとしてしまいました。
「シティポップの次はまた小室サウンドが来る」
―― とユーミンがおしゃっていたので、再び “小室系” が再評価されるのを、今から心待ちにしておきたいと思います。
▶ TRFのコラム一覧はこちら!
2022.09.29