山下久美子の7th アルバムはそのすべてのレコーディング行程をニューヨークで行うことになりました。着いた翌日から、サウンドプロデューサーのヒュー・マクラッケン(Hugh McCracken)と曲ごとの打合せを進め、翌週の火曜=1983年5月10日がスタジオ作業の開始日でした。
その前日、月曜日に私は銀行へ。スタジオ代もミュージシャン代もすべて現金精算なのです。数百万円もの大金を日本から持ち込むわけにいかないので、会社が三菱銀行(当時)の指定口座かなんかで引き出せるように手配してくれました。その銀行はあのワールド・トレード・センター・ビルの中でした。窓のすぐ外に雲が見えてビックリしましたからかなり上の階だったと思います。あの恐ろしい崩落の日、まだあそこに三菱銀行はあったのだろうか……?
さて、レコーディングスタジオは「The Power Station」というところでした。53丁目の10番街付近にありました。我々の少し前にデヴィッド・ボウイが『レッツ・ダンス(Let’s Dance)』を、少し後にマドンナが『ライク・ア・ヴァージン(Like a Virgin)』を録音するなど、当時とても人気があったスタジオです。この名をそのままグループ名にした “The Power Station” というバンドもありましたね。その後1996年に「Avatar Studios」と名が変わりつつも存続し続けていましたが、ついに今年の8月に終了し、バークリー大学の所有になったようです。
パワー・ステーションは木造りの内装で落ち着きがあり、居心地のいいスタジオでした。初日、ヒューとともににこやかに迎えてくれたのはここの専属エンジニア、ラリー・アレクサンダー(Larry Alexander)です。
ヒューが集めてくれたミュージシャンは錚々たる人たちでした。ドラムはリック・マロッタ(Rick Marotta)。スティーリー・ダンのアルバムなどでも叩いている人。ベースはトニー・レヴィン(Tony Levin)。70年代からヒューと並んで多くの名盤セッションに参加し、世界にその名を馳せるベーシストですが、この頃はもうキング・クリムゾンのメンバーだったはず。キーボードはドン・グロルニック(Don Grolnick)。リンダ・ロンシュタットやジェームス・テイラー、ブレッカー・ブラザーズとかと仕事しています。
ヒューのギターと彼らとで、まずはサウンドのベーシック(通常「4リズム」なんて呼びます)を作っていきます。凄腕揃いですから1日2曲ずつ、難なく進んでいきましたが、やはり専門がフュージョンというか、16ビートの、なめらかなあるいはファンキーなノリが得意なんですね。8ビートの縦ノリロックだと、今ひとつ良さが出ないのです。そして用意してきた曲は大半が8ビート。せっかくこんな人たちが集まってくれたのになんともったいない、…… とは後の自分が思うこと、その時は必死です。
特にリード曲と考えている「こっちをお向きよソフィア」という曲が、ちょっと歌謡曲的な8ビート・ロックで、これがリック・マロッタのドラミングとしっくりこなかったのです。この曲は大沢誉志幸が、“クラウディ・スカイ” というバンド時代からライブでは必ずやっていた彼の勝負曲のひとつ。頼み込んでそれをいただいて、男目線の歌詞だったのを、タイトルだけキープして康珍化に書き直してもらったのでした。
「泣き」系の曲なので、切なさを盛り上げるためにドラムのフィルインは “ダカダカダカダカ” と16分音符で畳みかけてほしいのですが、マロッタが叩くのは “ダ・ダ・ダ・ダ・” とか “ダ・ダッダダンダン” とか(これじゃ分からんよね……)、8分主体のちょっとのんびりしたフィルインばかりなのです。
そこで私は自分の希望を伝えて、修正をお願いしようとしたのですが、そこに立ち現れた言葉の壁。折重静子さんという人がコーディネイター兼通訳で、ずっと現場にいてくれたのですが、実は彼女にとってこれが初めてのレコーディングの仕事だったので、音楽専門用語あるいはレコーディング専門用語をほとんど知らず、うまく訳せないのです。
日米の違いが判ってくると、むしろ私が直接話したほうが理解が早かったりしましたが、ともかくこの時は折重さんも私も言葉ではどうにも表現できず、さっきのように “ダカダカダカダカ” とか言うばかりで、なかなか判ってもらえず、スタジオ内はドタバタ劇のようになってしまいました。
結局、フィルインだけあとで「パンチイン」(ある部分だけ録音し直すこと。こういうのが「レコーディング専門用語」で、日本でもこう言います。イギリスでは「drop in」ですが、アメリカでは「punch in」で通じます)したところもあります。ただアナログレコーダーでのドラムのフィルだけパンチインというのは簡単ではないので、どうも私が思うようにはなりませんでした。
セッションは、それが彼らにとっては普通だったんでしょうが、毎日20:00スタートでした。当然終わるのは夜中過ぎ。まだニューヨークが安全な街ではなかったこともあり、帰りはいつもヒューがバンタイプのマイカーで、ソーホーまで我々を送ってくれました。
この日はかなり遅くなりましたが、何があっても変わらないヒューの笑顔を見ると、なんだか少し元気が戻ってくるのでした。
スタジオに来てくれたビリー・ジョエル、山下久美子のNYレコーディング につづく
2017.11.05