2018年2月、平昌オリンピックは日本人選手の目覚ましい活躍で盛り上がった。夏冬問わずオリンピックが始まるといつも思い浮かぶのが、稀代の女性ロックシンガー、浜田麻里のことだ。 彼女のデビューは83年、ラウドネス~ビーイング人脈によるイニシャル「H・M(ヘヴィメタル)」の女性メタルシンガー第2弾としてジャパメタシーンに登場した。しかし、僕はその第1弾の本城未沙子を聴いて正直少々期待外れだったこともあり、デビュー作『ルナティック・ドール~暗殺警告』を先入観から不覚にもスルーしてしまう。 それから8か月後のある日、レコード店に行った僕の目は1枚の LP ジャケットの女性に釘付けになった。アルバム帯のタイトルは『ロマンティック・ナイト~炎の誓い』、浜田麻里の2作目だった。デビュー作のイメージとはうって変わりアイドルチックに微笑みかける姿が、何故か思春期真っ只中の僕の心を捉えたのだ。 思わずジャケ買いした LP に針を落とし、1曲目の「ドント・チェンジ・ユア・マインド」を聴いて愕然とした。どこまでも伸びるハイトーンヴォイスは驚異的で、樋口宗孝ら歴戦のバック陣と堂々と渡り合う様とキュートなルックスとのギャップが凄まじく、一発で魅了されたのだ。その瞬間から今に至るまで、浜田麻里は僕にとってフェイバリット女性シンガーになった。 彼女は多くのメタルファンからの支持を着実に獲得していき、作品を重ねるにつれ自ら楽曲も手がけるなどアーティストとして成長を遂げていった。85年には初期の名作『ブルー・レボリューション』をリリース。次第にメタル路線からより幅広い音楽性へとシフトしていく。B’z の松本孝弘がステージやスタジオでギタリストを務めたのもこの頃だ。 そんな過渡期である88年、のちの大ブレイクに繋がる重要な3曲のシングルが次々とリリースされた。その第一弾が、自動車の CM タイアップも得た3月発売の「フォーエヴァー」。ポップさとハードさが絶妙に同居するこの曲が持つポジティブな作風は、浜田麻里が目指すべき方向性を定めたと言えるだろう。 続いて同年6月発売の「コール・マイ・ラック」。これは、マイケル・ランドウらアメリカ西海岸の一流スタジオ人脈を起用したアルバム『ラブ・ネヴァー・ターンズ・アゲインスト』からの一曲。軽快なビートのハードポップで、彼女の人気曲のひとつになった。 そして、同年9月発売の「ハート・アンド・ソウル」では驚きのニュースが届く。何とソウルオリンピック、NHK の TV テーマソングに選ばれたというではないか。ポジティブなパワーに満ち溢れたキャッチーな楽曲と彼女の歌声はオリンピック中継と見事にマッチし、全国規模の TV 露出を通じて浜田麻里の名前と歌の魅力を世に広く知らしめた。 知名度が上がり彼女が大きな存在になっていく寂しさよりも、遂に一般層にまで認知された誇らしさで一杯になった。 それから1年後、満を持した勝負曲「リターン・トゥ・マイセルフ」をリリース。CM タイアップなど大規模なプロモーションがなされ、強豪がひしめくオリコンチャートで遂に見事1位を獲得。ヘヴィメタルクイーンという狭いカテゴリーから果敢に飛び出し、音楽シーンの中で名実ともに女性ロックシンガーの「ゴールドメダリスト」に輝いたのだった。 ヒットメーカーとして90年代前半を駆け抜けた後は比較的緩やかなペースで活動を続けたが、2013年の FNS 歌謡祭でのパフォーマンスをきっかけに、時代がまた巡ってきたかのように再評価の気運が高まった。その中で彼女が原点であるヘヴィメタルに再び回帰したことに、僕は嬉しい反面どこか複雑な気持ちもあった。 なぜなら「ハート・アンド・ソウル」をきっかけにメタルクイーンの枠から羽ばたき、幅広い音楽ファンに向けて大きく飛躍していった瞬間の喜びをあの時代に共有してきたからだ。 圧倒的な歌のチカラをメジャーな音楽シーンで再び見せてほしい。そのためにもメタルに縛られるのではなく、怒涛の快進撃でブレイクへの階段を駆け上がった80年代後半のポップでハードな路線に今こそ回帰してほしいと心から願うのだ。 変わらぬアンチエイジングな美貌と益々磨きがかかる時代を超越した歌唱力。2年後の東京オリンピックでの NHK のテーマソングには、浜田麻里が相応しいと思いませんか?※2018年3月31日に掲載された記事をアップデート
2018.09.17
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