20代の時、好きだった人と上野の西洋美術館に行った。丸井の前で待ち合わせて、一緒に坂をのぼって行った。
館内で「美術館で会った人だろ、そうさあんた間違いないさ」と歌っていたら、それは何かと聞かれた。
P-MODELというテクノポップの形を借りた、パンクで詩的なバンドのデビュー曲だと言ったら、全部歌ってみろと言う。
美術館で会った人だろ
そうさあんた間違いないさ
美術館で会った人だろ
そうさあんたまちがいないさ
きれいな額をゆびさして
子供が泣いてると言ってただろ
そこまで歌うと、「変な歌だ」と言った。
そう、変な歌。私はこの歌を中学生の時にラジオで聞いて以来、よく意味がわからないままだった。この歌の主人公は、今で言うストーカーなのかと思った。
美術館で会ったと言い張り、ある女を執拗に追いかける男。女は彼を知らないのか、街中で会っても知らんぷりする。すると男は逆上して、美術館に火をつける、そんな歌かと。
続きを歌いながら解釈を話すと、好きだった人は「いや、この歌では男は、女にはめられている。女は男を何かに利用した」と言う。
そんな話しを、上野の山を下りて、あんみつ屋の「みはし」でした。結論は出ないまま別れ、その人とはその後会わなくなった。そして何年もたった。この前DJをする際このレコードをかけようと思って聞いていて、また考えた。
そもそもP-MODELの歌、平沢進の歌詞には、ディストピア小説のような趣がある。否定的で反ユートピアの要素をシニカルにちらつかせながら、政治的・社会的な問題を取沙汰し、風刺しているかのような。
そこから、ロシアの政治体制を風刺したSF小説、ザミャーチンの「われら」という小説を思い出した。
統制された社会に疑問を持たずに生きていたD-503。ところがI-330という女性に恋をする。国家転覆を企てていると知り次第に感化され、科学だけでは割り切れない人間の行動や感情を取り戻していく・・・という小説。
もしかして、平沢進の言う「美術館」とは、実は統制された社会なのではないか。そこで何も気づかずに色々と用意された秩序の中で暮らしていれば何の支障もない。そこは平沢の言う「夢の世界」=恣意的なユートピアだ。
しかし、ある日「あんた」に出会ってしまう。
その人がきれいな額を指さして子どもが泣いている、という。何かをやらされた「血のりで汚れた僕の指」を見て「アイラブユー」と言う。「あんた」に感情を揺さぶられた「僕」は、システムの一部であることを逸脱していく。
「あんた」は本当に僕を愛していなかったのかもしれない。彼を煽った挙句、街中で会っても知らんぷりで翻弄する。「あんたと仲良くしたいから」僕は、促されるまま、美術館に火をつける。
システムか、国家か、何かの転覆に利用された彼はその後どうしたのだろう。「あんた」は「組織」と共に消えたかもしれない。この「美術館で会った人だろ」のやけっぱちな明るさに、明日があるようには思えない。
ザミャーチンの「われら」ではD-503が製作を手伝った宇宙船インテグラル号の飛行実験は失敗、I-330は拷問・処刑され、D-503は「想像力摘出手術」を受けさせられて元の管理された生活に戻されてしまった。
彼は、ガス室で拷問・処刑される、頭を後ろへそらし、眼を半分閉じ、唇を噛みしめた愛するI-330を見ても、彼女をわからず、こう「覚え書」に記す。
「これは私に何かを思い出させた。彼女は椅子の腕木をしっかりとつかんで、私を見ていた―眼をすっかり閉じるまで私を見ていた」
いまだに、美術館に行くと「美術館で会った人だろ」と口ずさんでしまう。
「あんたと仲良くしたいから」と、美術館に火をつけた僕もD-503のように、何かがあって、何かを失い、どこにも行けず、永遠に「美術館」という無間地獄をさまよっているかもしれない・・・ などと、とめどもない想像をめぐらせる。
そして自分の想像力は摘出されていなくてよかった、と思ったりする。
2017.06.12
YouTube / artmania33
Information