1978年の6月25日、サザンオールスターズがビクターから「勝手にシンドバッド」でデビューした。
まだ中学2年だった自分もたちまち虜になるのだが、さすがにデビュー前からチェックしていたわけではなかった。レコードが発売されてすぐに買ったのでもない。『平凡』か『明星』のそれほど大きくはない記事でなんとなく認識はしていたけれど、注目したのはやはり8月31日に『ザ・ベストテン』(TBS系)の “今週のスポットライト” のコーナーに登場してからだと思う。
都内のライヴハウスからの中継で、大いに盛り上がりを見せる中、ジョギバン姿で「勝手にシンドバッド」を熱唱したシーンは、ファンならずとも今や伝説となっている。後に桑田自身の述懐で、その時の観客は知り合いを掻き集めた、いわばサクラだったということを知るわけだが――
その後、サザンオールスターズは9月21日の放送に第9位で初登場し、10週に亘ってランクインを果たした。最高4位、オリコンチャートでは3位という、新人らしからぬ好スタートを切ったのである。たしかにインパクトはあったけれども、早口言葉の連射砲でコミックソング然としたデビュー曲から、後に国民的なアーティストになることを誰が予測出来たであろうか。
既に出来上がっていた「いとしのエリー」を次のシングル曲に希望したメンバーの意見は通らず、「勝手にシンドバッド」と同路線の第2弾「気分しだいで責めないで」が11月にリリースされる。売れたらそれに追随するという鉄則に従えば、レコード会社や事務所の判断は致し方ないところであったろう。
前作には及ばないまでも、幸いこの曲もヒットしたことで、翌79年3月に3枚目のシングルとして「いとしのエリー」がリリースされる。それまでの曲と雰囲気を一変しての美しいバラードナンバーに人々は魅せられた。
そして、揺るぎないザザンオールスターズ伝説がいよいよ紡がれてゆくわけであるが、その歴史や楽曲の魅力に関しては多くの文献が存在しているので、ここでは少し視点を変えて、“湘南サウンド” の変遷におけるサザンオールスターズの存在を再検証しておきたい。
そもそも、湘南サウンドの中枢といえる加山雄三やグループサウンズの全盛期には、そのようなジャンルはまだ確立していなかった。“グループサウンズ” と同様にマスコミで取り上げられた際や何かの宣伝の時に作り上げられた呼称とおぼしいが、それにしてもきっかけがあったはず。ずばり、そのキーマンは加瀬邦彦だと推察される。
加山雄三が「君といつまでも」を大ヒットさせてブームを起こしていた66年の秋、葉山での合宿を終えたザ・ワイルド・ワンズが満を持して東芝からデビューする。
短期間ではあるが茅ヶ崎に住んでいた時期に加山との親交を深めた加瀬は、GS時代に向けてバンドを新結成。加山が命名した4人組はデビュー曲「想い出の渚」を大ヒットさせて、たちまち人気バンドとなった。茅ヶ崎で育った加山と、その弟分であるザ・ワイルド・ワンズで、まずは湘南を拠点とするオリジナルポップスのコミュニティが形作られたのである。
「想い出の渚」が湘南サウンドの幕開けとなったことは間違いない。加山の従弟にあたる喜多嶋瑛・修らが在籍したザ・ランチャーズも、加山のバックバンドから独立し、「真冬の帰り道」で颯爽とデビューを飾った。もしかすると、茅ヶ崎出身の尾崎紀世彦がスターとなった70年代初頭、彼がもっとリゾートっぽい海の歌などを歌っていたら、湘南サウンドとして括られていたかもしれない。
その頃、加山は多額の借金を背負った苦境の時代であり、ザ・ワイルド・ワンズも解散直前であった。しかし人生、時化の後には凪がやって来る。75年になって、映画『若大将シリーズ』の旧作再上映から火が着き、再び加山ブームが訪れたのだ。
久々のヒット曲「ぼくの妹に」と同時期に加山の俳優仲間である後輩、あおい輝彦が「あなただけを」をヒットさせた76年―― 荒井由実時代のユーミンが4枚目のオリジナルアルバム『14番目の月』をリリース。収録曲「天気雨」で湘南ソングを歌った。歌詞に登場するサーフショップ・ゴッデスは一躍有名になる。
ユーミンは茅ヶ崎在住の岩沢幸矢と岩沢二弓兄弟によるフォークデュオ、ブレッド&バターに「湘南ガール」などの詞を提供していることもあり、湘南サウンドを語る時に欠かせない人物といえる。
そして、復活した加山が再びヒットを連ね始めた76~77年頃、東芝EMI(現・ユニバーサルミュージック)では、新時代のポップスの担い手として、加山とユーミンを同時にプロモーションするキャンペーンが展開された。この辺りが実は “湘南サウンド” という言葉が本格的に使われ始めた時期ではないかと思っている。
そこへ78年、彗星のごとく現れたのが、サザンオールスターズだった。(後篇につづく)
2018.06.25