4月20日

本田美奈子の魅力、いつまでも輝き続ける永遠の歌姫

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本田美奈子のデビューシングル「殺意のバカンス」がリリースされた日
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80年代は、中森明菜をはじめ、正統派アイドルが人気を博す一方、ファンに身近な「おニャン子クラブ」などアイドルが多様化した時代。そんな中、登場したのが1985年に「殺意のバカンス」でデビューし、翌年「1986年のマリリン」の大ヒットで、80年代を代表するアイドルとなった本田美奈子だ。

同期デビューはおニャン子クラブのほかに、斉藤由貴、中山美穂、南野陽子、森口博子、芳本美代子、井森美幸、浅香唯、石野陽子、松本典子、森川美穂など錚々たるメンバーがいるが、デビュー当初から歌の上手いアイドルとして評価されており、中森明菜と並んでアイドル界一の歌唱力があったと言われている。

彼女は元々演歌歌手志望だったが、所属した事務所に演歌歌手を育てた経験がなかった為、アイドルとしてデビューすることになった。デビューの年には各種歌唱賞の新人賞を数多く受賞。翌年発売された「1986年のマリリン」は爆発的なヒットとなり、おへそを露出させた衣装や激しく腰を振る振り付けなど、当時のアイドル歌手としては異例の演出で世の中の注目を集めた。今映像を見ても、当時、高校三年生だったとはとても思えないセクシーさと可愛さに女の私でも釘付けになってしまうほどだ。

こうした演出の意図について、本田自身は、4枚目のシングル「Temptation(誘惑)」が各種ランキングの10位以内に届かなかったのが悔しくて、より強く個性を出そうとしたと語っている。作詞の秋元康と作曲の筒美京平はこの後もこのコンビで彼女の楽曲を数多く手がけた。

ところで、デビュー初期はアイドル歌手として活動していたが、本人はアイドルと呼ばれるのを嫌っていたという説がある。

歌番組でも「アイドルよりもアーティストの方がカッコイイじゃないですか?」と話していたり、日頃から「アーティストでありたい」と口にするなど、事務所やレコード会社からイメージ通りの姿を演じることを要求される、そういったアイドル歌手の枠には収まり切らない言動が目立っていた。若い時から自己の信念を確立していた人であった。

1990年、ミュージカル『ミス・サイゴン』のヒロイン・キム役に、15,000人が参加したオーディションから選ばれ、1992年、『ミス・サイゴン』日本初演。

オーディションの話を聞かされた時、初めは関心を示さなかったが、全編歌で構成されたミュージカルであることを知ると目の色を変えて意欲を示すようになったという。アイドル出身の彼女の力量を危ぶむ声もあったが、一年半に及ぶロングランを務め、その歌唱力、演技力が世間で高く評価され、1992年度第30回ゴールデン・アロー賞演劇新人賞を受賞。以後も『屋根の上のバイオリン弾き』、『王様と私』、『レ・ミゼラブル』と人気ミュージカルに相次いで出演し、実力派女優としての地位を揺るぎないものにした。

その歌声は聞く人の心を震わせ、愛らしいルックスと踊りも多くの人を魅了した。歌手から活躍の場が舞台に変わったとしても、その魅力は変わることなく輝き続ける。

1990年代以降は主にミュージカルで活動し、2000年代に入ってからはクラシックとのクロスオーバーに挑戦。本田は新たな活躍の場に挑むごとに、音域や唱法のバラエティーを広げた。クラシックの楽曲を歌うことになった経緯については「ミュージカルで色んな役をこなしているうちに、それまで出せなかったような声を出せるようになった」と説明している。

2003年、クラシックアルバム『AVE MARIA』を発表し、ソプラノ的な唱法でクラシックの曲に日本語詞をつけて歌うというユニークなスタイルで新境地を切り開くが、2005年11月6日、急性骨髄性白血病のため、38歳の若さで帰らぬ人となった。

私はもちろん、沢山の人が元気に歌う彼女の姿をいつまでも見続けることが出来ると思っていた。彼女が病魔と必死に戦う姿を応援した人は多く、また再びその歌声を届けてくれると信じていたし、彼女ももう一度ファンに歌を届けるために戦っていた。入院中もストレッチや発声練習を行うなど、復帰への意欲を強く持ち続けていた。しかし、残念ながらその願いは届かなかった。

入院中、他の入院患者との触れ合いや、ファンや仕事仲間からの応援メッセージによって励まされていた彼女は、自らが病気を克服し、再び元気な姿でステージに立つことが同じように難病に苦しむ人の希望になると考え、亡くなる半月ほど前の10月19日に難病患者を支援するための活動として『LIVE FOR LIFE』を立ち上げる。

そして、その彼女の遺志は遺族や友人、関係者によって今尚受け継がれている。現在は NPO法人として運営され、この『LIVE FOR LIFE』の協賛により、毎年命日前後に彼女の追悼イベントが各地で開催されている。

アイドルからロックにも挑戦し、ミュージカル、クラシックと幅広いジャンルの音楽を辿ってきた彼女。40代になったら、ジャズが歌いたいと言っていたそうだ。50代になったら夢だった演歌歌手にも挑戦していたのだろうか?

今でもファンクラブが継続運営されているなど根強い人気がある彼女の歌声は、いつまでも人々の心に生き続けることだろう。きっと天国でも、大好きな歌を沢山歌っているに違いない。

今年の11月6日で、亡くなられてから14年(注:2019年時点)。

1967年7月31日に誕生し、生きていたら52歳を迎える本田美奈子さん。偶然にも、この原稿を書いている今日が、デビューシングル「殺意のバカンス」がリリースされた日であることを知り、勝手に運命を感じている。


※2017年8月10日に掲載された記事をアップデート

2019.04.20
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