シティポップに影響を与えたカーティス・メイフィールド
2022年6月3日、アメリカの伝説的R&Bシンガー、カーティス・メイフィールドが80歳を迎える日だ。彼は1999年57歳の若さで亡くなっているので、もちろん存命していれば… の話ではある。
そうか、カーティスが逝去してから22年という歳月が流れたのか…。ソウルミュージックの黎明期(おおよそ1950年代後半から60年代にかけて)から確立期(おおよそ1960年代)、そして成熟期(1970年代以降)にかけて、大衆音楽としてのソウルミュージックシーン隆盛の一角を担った立役者のひとりだったカーティス・メイフィールド。
本国アメリカでのR&Bシーンにおける偉大なる功績はもとより、昨今のシティポップブームにも間接的に影響を与えていたカーティスの軌跡を振り返ってみよう。
ブラック・コミュニティに訴求するヒットを連発
巷間言われているようにカーティス・メイフィールドの功績といえば、最も精力的に作品を世に送り出していた1960年代から1970年代の時期ということになる。
ソウルミュージック黎明期から “インプレッションズ” の創設者として活動(1950年代後半~)、特にリードをとり始めてグループ内でのイニシアティブを強めていった1960年代前半以降はブラックコミュニティに訴求するヒットを連発(「ピープル・ゲット・レディ」「エイメン」等が代表例)、公民権運動にコンシャスな姿勢を保ちながらソウルミュージックを盛り上げていた。
1960年代のインプレッションズのアフロアメリカンからの支持は絶大で、ソウルコーラスグループのパイオニアとしてはテンプテーションズにも勝るとも劣らないと言っていいものだ。
1970年代、ニューソウル・ムーブメントの第一人者として
1970年代以降はグループを脱退してソロシンガーとして活動、特に70年代後半に差し掛かる時期くらいまでは、グループ時代に次ぐ隆盛期を迎えている。この時期のカーティス作品の特徴は、やはりアフロ・アメリカン人権の確保を根底に据えたアーティストとしてのクオリティコントロールを誇示するようなもので、いわゆる(日本でいうところの)ニューソウル・ムーブメントの第一人者であった。
ブラックスプロイテーションの代表作である『スーパーフライ』(1972年)のサントラ(「フレディズ・デッド」「スーパーフライ」が大ヒット)、後のフリーソウル・ブーム(1990年代)時に再脚光を浴びたソロ1作目アルバムに収録された「ムーヴ・オン・アップ」(1970年)等は、日本でも耳なじみだったのではないだろうか。
当時イギリスでチャートインした「ムーヴ・オン・アップ」は、実はソウルマンであるポール・ウェラー率いるザ・ジャムがカバー(1982年)、アメリカ国外でひとり歩きしているような作品でもある。そして70年代中盤以降ザ・ステイプル・シンガーズを筆頭に多くのブラックアーティストをプロデュース、ソウルミュージックのすそ野を広げることに貢献した。
1970年代のカーティスの活動は、ブラックコミュニティへの訴求はもちろん、実は海外(特に日英)への影響が大きかったというのが見えてくる。いわゆるニューソウル系のアーティストでは、マーヴィン・ゲイやスティーヴィー・ワンダーらにも匹敵する活躍だったのかもしれない。
70年代後半、ソウルの主流はブラックコンテンポラリーに
ここまで1960年代、1970年代それぞれのカーティスの功績を述べてきた。99年の逝去時にはおおよそ彼の大衆音楽への貢献はこの2点に集約されていたといっていいだろう。ところがここ10年くらいの日本における “シティポップ” ブームの勃発は、カーティスのもうひとつの貢献にじわじわとスポットライトが当たることになった。
ロックンロールから派生したソウルミュージック(R&B)は、その誕生以来特に1960年代から1990年代にかけて、新たな革新を伴いながらメインストリームの大衆音楽に花を添えてきた。1970年代はスウィートソウル~ファンク~ディスコという大きな潮流を携えながら時代が推移していったが、70年代後半新たなソウルミュージックが生まれる。
それは従来のステレオタイプな(汗や咆哮を感じさせる)ソウルから逸脱した、スタイリッシュで都会的で(汗を感じさせない)新たな唱法を伴ったソウル、日本でいうところの “ブラックコンテンポラリー”(以下ブラコン)と呼ばれた音楽だ。ジョージ・ベンソンやレイ・パーカーJr等からルーサー・ヴァンドロス出現以降、ブラコンは80年代のソウルミュージックの主流となっていく。
シティーポップの礎になったファンク(ブギー)
同時期(70年代後半~80年代初頭)に発生したのが、AORやポスト・ディスコ期に向かう打ち込みに移行するファンク(いわゆるブギー)。これらブラコン、AOR、ブギーといった、極めて80年代的な実に心地よく気持ちいい新たなムーブメントは、当時の邦アーティストたちに多大なる影響を与えたのは明らかなわけで、それを(60年代以降連綿と継承されるアメリカンポップの意匠を纏いながら)愚直に再現したのが、今でいうシティポップだ。
という時代背景を踏まえながらカーティスの作品を検証すれば… 1970年代後半から80年代初頭のアルバムは、ブラコンやブギーといったムーブメントに目配せしているのがわかる。そう、一時代を築いたカーティスはその後も精力的にコンテンポラリーなサウンドを採り入れて現行アーティストとしての矜持を保つ姿勢を崩していなかったのだ。
特に顕著だったのがアルバム『サムシング・トゥ・ビリーヴ・イン』(1980年)に収録されシングルヒットもした「トリッピング・アウト」。ハーブ・アルパート「ライズ」(1979年)や後のケニ・バーク「ライジング・トゥ・ザ・トップ」(1982年)にも聴かれる、フロア仕様のブギーでは定型のリズム・パターンのひとつといえる感触の作品。ベテラン・アーティストがこういったアプローチをするのは進取の精神に富んだ気概みたいなものを感じるし、「セクシャル・ヒーリング」(1982年)で大復活したマーヴィン・ゲイへの布石だったのかと思えて仕方ない。
山下達郎、竹内まりやをはじめ日本アーティストも敏感に反応
さてこの定型パターンに敏感に反応したのが山下達郎であり(「甘く危険な香り」1982年)、竹内まりや(「プラスティック・ラヴ」1984年、プロデュースは山下達郎)だった。
広い意味でのシティポップ作品、中森明菜「ミ・アモーレ」(1985年、松岡直也作曲)等にも聴かれたりして、少なからずの邦サウンド・クリエイターに「トリッピング・アウト」が刷り込まれていたのかもしれない。もちろんこのリズムパターンは80年代前半のブギー(イーストコーストファンク、ニューヨークサウンド)シーンにこそ垣間見られたものだ。大きな意味でのカーティス3つ目の偉業は、彼の死後21世紀に入ってようやく陽の目を見たようだ。
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2022.06.03