4月1日

Netflix最新映画にも使われた 山下久美子「赤道小町ドキッ」44年前のレコーディング現場

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ヒートアップしていた、資生堂 vs カネボウのイメージソング戦争


山下久美子のサードアルバム『雨の日は家にいて』が発売になって間もなく、1981年10月のある日、JMSという聞き慣れない会社の長岡さんという人から連絡をいただき、会うことになりました。JMSは広告代理店で、電通、博報堂に混じってカネボウ化粧品を担当していました。なんと、山下久美子にカネボウ化粧品の来年夏のキャンペーンソングをやってもらえないか、という話でした。

1977年あたりから本格化した “資生堂 vs カネボウのイメージソング戦争” はその頃ますますヒートアップ。カネボウだけでも「セクシャルバイオレットNo.1」(桑名正博 / 1979年秋)、「唇よ、熱く君を語れ」(渡辺真知子 / 1980年春)、「春咲小紅」(矢野顕子 / 1981年春)など次々にヒット曲が生まれていました。

この頃から、CMやドラマとのタイアップは、レコードを売るための基本的な手段のひとつになり、その後はレコード会社の宣伝部隊がその獲得を目指して売り込みに日参し、決まったら決まったで “宣伝費” ということで、場合によっては数百万円ものお金を支払う、なんて状況に後になっていきます。

《太陽小町ドキッ》というダミー・コピー


だけどこのときは、向こうからこちらに頼みに来る、お金を払えなんてことは言わない(後日、作家への許諾料まで払っていただきました)。こちらへの要求は、著作権使用料の免除と候補作品のデモを3曲以上提出すること。それにキャンペーン・コピーをそのまま曲タイトルとすること…… くらい。まだいい時代だったのでしょうが、至極まっとうなビジネスでした。

JMSの長岡さんもとても穏やかな、感じの良いかたでした。もちろんお受けしない理由がありません。そしてそのまますんなりと決まってしまいました。日本最大級と言っていいタイアップ話が、こんなに簡単に決まるなんて、まるでシンデレラストーリーですね。でも本当です。

ああ、もうひとつ要求がありました。《赤道小町ドキッ》というというキャンペーン・コピーを知らされた会議で、このコピーは極秘ですので、作家さんに発注する際にも、決して漏らさないでくださいと言われたのです。敵(資生堂)に知られでもしたら、たいへんだというわけです。しかし、それでは作家も作りようがありません。

代わりにこのダミー・コピーで進めてください。と見せられたのは《太陽小町ドキッ》というコピーでした。ふーむ、なるほど、まあイメージは近いかもね。これ、つまり、当時は毎回やっていたのでしょうが、私はもちろんこの時しか知りません。たとえば「セクシャルバイオレットNo.1」ではどういうダミー・コピーがあったのか、たいへん興味があるところです。ともあれ、この《太陽小町》が、私に小さな悲劇をもたらすことになるのですが……。



“はっぴいえんどコンビ” 松本隆、細野晴臣にも発注


いずれにせよ、ヒットにつながるビッグチャンスです。私が考えたのは、山下久美子のデビュー以来、一所懸命作ってきてくれた作詞の康珍化さん、作曲の亀井登志夫さん、大沢誉志幸さん、岡本一生さんたちと、さらにいいものを作りヒットすれば、まだ新人同様だった彼らのためにもなるだろうということ。そして、デモを3曲以上出してほしいという代理店の要求でしたので、ひとつの詞に作曲の3人が、それぞれ曲をつけることにしました。

ところが、日本コロムビアA&Rの三野さんは、チャンスなんだから当然ヒットメーカーにということで、松本隆さんに依頼、松本さんが細野晴臣さんを指名しての “はっぴいえんどコンビ” を配してきました。もちろん彼らは、私も尊敬してやまない音楽人ですが、これまで久美子と何も関わっていないわけで、大きなチャンスだからといって、いや、だからこそ、彼らを突然起用することに私には強い抵抗がありました。なので、松本-細野ラインは三野さんにお任せし、曲ができるまで一切関わりませんでした。

《太陽小町》でなく《赤道小町》で発注しているのでは?


前述したように、キャンペーンのコピーは《赤道小町》ですが、それをライバル社から隠すため、ダミーの《太陽小町》で仕事を進めてくれと厳命されていました。私は素直にそれに従い、康珍化さんにも《太陽小町》で歌詞を発注しました。そして、できてきた詞を3人の作曲家に渡し、曲をつけてもらいました。

曲ができてハタと気づいたことは《赤道》と《太陽》の語感の違いでした。“セキドウ” は子音がはっきりしているのに比べ、“タイヨウ” では “タ” 以外、母音ないし “Y” という角がない子音。それにより、できてきた曲は《太陽》のところがいずれもスラー(音を途切れさせずに滑らかに演奏する)っぽいのです。そう、明らかにメロディが《太陽》の語感にそっているのです。

ところが、松本-細野ラインでできてきた曲を聴いたら、《太陽》すなわち《赤道》のところは、(ご存知のように)カクカクと8分音符で刻んでいて《赤道》の語感にピッタリではありませんか。これはきっと松本さんに《太陽小町》でなく 《赤道小町》で発注しているのでは?と思い、三野さんに尋ねたら、悪びれもせず、もちろんだよとの答え。さらに、そんなスポンサーの言い分なんか聞いてどうするんだよ。言葉が変わったら曲は変わっちゃうんだから……。その時点でやっと気づきました。私はまだまだどうしようもない甘ちゃんだと。

アレンジは、ギタリストの大村憲司


いずれにせよ、その松本-細野作品は歌詞もメロディーもよかったので、久美子本人もいちばん気に入ったし、スポンサーサイドも迷いなくそれを選びました。私のつまらない意地はあっさりと水泡に帰しました。さて、こうなったら頭を切り替えて、レコーディングです。

ただやはり、この時期すっかりテクノの人となっている細野さんのサウンドそのまんまだと、今までの久美子の路線からはかけ離れ過ぎてしまうのが心配でした。ちょうど4枚目のアルバム『抱きしめてオンリィ・ユー』のレコーディングを、(今は亡き)ギターの大村憲司さんアレンジで進めていて、根っこはブルース・フィーリングながら、YMOのワールドツアーにも参加している彼に入ってもらえればつながると考えました。

細野さんも「かまわない」とのことなので、アレンジは大村さんということで、レコーディング当日を迎えます。



高橋幸宏らしいかっこいいドラム


当時のスケジュール帳を見ると、山下久美子の「赤道小町ドキッ」のレコーディングは、1982年1月25日月曜日に、港区麻布台のサウンド・シティ第2スタジオで行なわれています。これまでポップロック路線でやってきた久美子と、その時期の細野さんの世界=テクノポップのつなぎ役として、大村憲司さんにアレンジャーという立場に立ってもらったのですが、ともかくベーシック部分は自分でやるからと細野さんがスタジオにやってきました。

既にスタンバイしていたプログラマーの松武秀樹さんと、静かに作業が始まります。チッチキチッチキというハイハット音とか、ベンベンベンベンというベース音を、細野さんがボソボソと松武さんに指示しながら作っていきます。嫁入り道具ほどもあるシンセサイザー群のどれからその音が出てくるのか、私には判りません(松武さんが「タンス」と呼ぶ “モーグ・モジュラー・システム” もありました)。

そこに現れたのが高橋幸宏さん。シンセベースに合わせてドラムをダビング(重ね録音)するために来てくれました。ドラムのセッティング作業を見ていると、ハイハットを大きなタオルでグルグル巻きにしています。ハイハットはさっき作った打ち込みの音を使うんですね。だから生ドラムのハイハットは要らないのだけれど、ハイハットを叩きながらじゃないと演奏しにくいから、叩いても音が出ないようにしているわけです。そんなことするのを初めて見たのでビックリしましたが、手慣れた作業のようで、YMOのレコーディングでもきっとこうしていたんでしょうね。幸宏さんらしい、かっこいいドラムが録れました。

細野晴臣のひとつひとつの音への卓越したセンス


ドラムのあとは、コード系やフレーズ系の音を、作っては重ねていきます。主にプロフェット5というアナログシンセを使っていたと思います。どの音もとてもよい音。アナログシンセは、いろんな音の要素をボリュームつまみで微妙に調整しながら音色を作るので、作る人のセンスしだいなんですね。もちろん松武さんはその道のプロでしたが、このときは細野さんが自分でいじっていたと思います。

私が関わったレコーディングの中で、シンセサイザーの音はこれがいちばん好き。曲全体で聴くとひとつひとつの音は埋もれていますが、実はちゃんと音楽を支え、サウンドを生き生きしたものにしてくれていると思います。YMOの音楽があれほど広まったのも、今もって魅力を失わないのも、彼らのこういうひとつひとつの音への卓越したセンスによるところが大きいんじゃないでしょうか。

えーっと、細野さんベーシック部分だけって言ってなかったっけ? ……大村さんはまだ眺めているだけです。細野さんは黙々と作業を進めます。そして数時間、サウンドとしてはほぼできあがったと言ってもよいくらいになってから、おもむろに細野さん「じゃあ憲司、あとは任せたから」とボソッと言い、帰っていきました……。





アルバム「抱きしめてオンリィ・ユー」に収録されなかったワケは?


そのあと大村さんがやったのは、そこにギターを重ねることだけでした。でもイントロのフレーズはとても印象的で、この曲の魅力のひとつになったし、ロックっぽいギターが入ることでテクノ色は少しは薄れました。しかし私は、やはりこれまでの久美子の方向性とギャップがあり過ぎると思い、シングルリリースと同じ日、1982年4月1日に発売したアルバム『抱きしめてオンリィ・ユー』に、あえてこの曲を入れませんでした。

まあ、普通は入れますよね。ヒットの可能性が高いシングルなんだから、それでアルバムの売上を引っ張ることを目論むのが当然です。これも私の青い意地だったのです。今思うと、よくコロムビアが許しましたね。

カネボウCMの大量スポットもあり、「赤道小町ドキッ」は順調に売れていきました。オリコン1位はとれなかったけど(最高2位)、TBSの『ザ・ベストテン』に何度か出演して、久美子が象に乗って歌ったのを覚えていらっしゃる方もいると思います。アルバムもある程度は売れましたが、この曲が入っていたら、たぶんもっと売れたんでしょうね……。


Previous article:2017/6/29、6/30、7/1

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2026.02.12
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カタリベ
1954年生まれ
ふくおかとも彦
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