山下久美子が1981年の6月に「とりあえずニューヨーク」という、筒美京平+近田春夫コンビによるシングルをリリースした話を以前語りました。その末尾に「山下久美子プロジェクトの中で、『ニューヨーク』というキーワードが育ち始めることになるのです。」と書いて、その後の顛末をまだお話ししていませんでしたね。 1982年4月、「赤道小町ドキッ」が売れて勢いづいてくると、それを失速させないことはもちろん、さらなる高みを目指して、策を練っては繰り出すというモードに入っていきます。ここで「ニューヨーク」が浮上してきました。 この時点で次のアルバムをニューヨークでレコーディングするという話も出てきました。しかし、久美子も私も前アルバム『抱きしめてオンリィ・ユー』で組んだ大村憲司さんと、もう1アルバム作りたいという気持がありましたし、内心(このほうが大きかったんですが)、その時点でパスポートすら持っていなかった私が、ニューヨークなんちゅう世界に冠たる大都会で、外国人といっしょにレコードを作るなんてできっこない、とビビっていたのです。 ならばニューヨークで写真を撮って写真集を発売しよう! と言い出したのは久美子チームの宣伝チーフ、渡辺プロ宣伝部の渡部洋二郎先輩でした。それはお任せします、と門外漢を決めこんでいるうちに、渡部先輩は出版社を口説き落とし、カメラマンも決め、渡航の段取りもサクッと手配して、あっと言う間に準備万端整えてしまいました。そして彼が私に言ったのです。 「おまえもさぁ、せっかくいい機会なんだから、いっしょに来れば? でっかいロフトを借りるから泊まりは心配ないよ。」 泊まりは心配ないよ、ってことは飛行機代は自分で出せ、という意味でした。今ならニューヨーク往復チケット、安いものなら10万円前後で買えるでしょうが、当時、1ドルが250円以上という時代、エコノミーのニューヨーク往復が、忘れもしない、43万円でした。 高い! 高過ぎる! でも。行きたい気持ちはありました。日本の外に出たことがないし、この先また行けるかどうかも判らないし…… 今思うと笑い話ですけど、その時はけっこうマジで悩みました。ほとんど吉田松陰が国禁に背いてでもアメリカに行くべしとペリーの艦隊に小舟でこぎつけたときくらいの覚悟で、結局私はその大金を自腹で払い、久美子の写真撮影出張に同行することにしたのでした。 1982年8月10日から17日、わずか1週間の初海外&初NY体験でしたが、いやぁ、いい思い出ありませんでした。ひたすら怖かった。 何がって? まず英語がわからない。学校英語はそれなりに勉強してきたはずなのに、おそらく英文法ならそのへんのアメリカ人にも負けないくらい知ってるはずなのに、何を言ってるのかほとんどわからない。 口語というものを学んでないから、たとえば買い物で、「これください」を「Can I have ***?」ということも知りませんでした。レストランでチップを払うその方法、勘定の1〜1.5割くらいの金額をテーブルに残してゆくというやり方を知らないから、ウェイターの人に「これチップ」なんて渡して怪訝な顔をされたり。 そして、地下鉄の落書き。今はすっかり様変わりできれいなものですが、当時は何じゃこりゃ!? と驚くくらいビッシリと落書きだらけで、汚いしなんか暗い。夜の地下鉄は危ないから乗っちゃダメなんて言われてました。街も1st アベニューより東のアベニューA、B、Cには行っちゃいけないと言われたし、夜中はパトカーのサイレンがうなりまくっていたし……。 ただその間、ひとつコンサートを観ました。8月14日に、たまたまブロンディのコンサートが、ニュージャージー州ですがそう遠くない、イースト・ラザフォード(East Rutherford)という町のメドーランズ・スポーツ・コンプレックス(Meadowlands Sports Complex)というところであったのです。その時は知らなかったのですが、それがブロンディ解散前の最後のツアーでした。 バカでかい会場で、開演前から大きなバルーンがいくつか客席でポーンポーンと撞き回されるという、あのよくある光景をこの目で初めて観て、おおさすがアメリカやと感心したり、前座がいろいろあってブロンディが出てきたのは23時くらい、その時刻の遅さに驚いたりしつつ、それなりにパフォーマンスを楽しみながらも、心の中では、もうニューヨークなんて二度と来るまい、と固く誓っていたのでした……。
2017.07.31
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YouTube / BlondieVEVO
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