記録以上に現象として鮮烈な記憶に刻まれるバンド、それが 44MAGNUM だ。
デビュー以前から地元大阪をはじめ、各地のライヴハウスの動員記録を塗り替えその名を轟かせた勢いはジャパメタムーヴメントの象徴であり、メジャー進出への期待度の高さはダントツだった。
彼らを知って何より驚かされたのが強烈なインパクトの風貌だった。まだ珍しかった長い金髪とケバい化粧。レザーをスタッズで飾ったコスチュームのメンバーは反逆的で退廃的な匂いを漂わせ、当時メタルと相入れなかったパンクス等を含めたロックファンにもアピールした。
83年末、遂に届いた1st『デンジャー』、更に僅か10ヶ月後の2nd『ストリート・ロックンローラー』では、いずれもハードロックンロールをベースにしながら、期待に違わぬ正攻法のヘヴィメタルを披露。
ヴォーカルのポールこと梅原達也の独特の声質と節回し、歌詞の世界観は 44MAGNUM らしさを強く感じさせた。若手勢ではアースシェイカーと二分する人気で実際、僕の地元のライヴハウスに出演するアマチュアバンドの間でも、「ストリート・ロックンローラー」が「モア」とともに最も演奏される楽曲になった。
独特の口調で煽るポールのMCや、日本人離れした肢体で誰よりも格好良くギターを奏でたジミーこと広瀬さとしのステージング等、特異なヴィジュアルを活かしたライヴも強力で、様々なフェスで彼らが登場すると雰囲気が一変。他の出演バンドを食ってしまう事態が起きた。
余談だが、僕の地元福岡でも『グランドメタル』フェスが開催され、その前日『Night Jack FUKUOKA』というTV番組にポールが浜田麻里と一緒にゲスト出演した。写真の怖いイメージとは違う柔らかい雰囲気の彼を観て、少し安心したのを覚えている。
その後、海外にも活動を拡げる中、次作『アクター』が充実した出来にも関わらず専門誌で酷評された辺りから歯車が狂い始める。そして、87年には突然、脱メタルを宣言し髪を切り、おしゃれなスーツを身に纏ってダンサンブルなロック路線へと180度転換。メタルファンの支持を失い、結局89年解散してしまう。
今思えば、時代の流れを敏感にキャッチして、その時一番格好良いと思うことに挑むことが彼らの本質であり、80年代後半にジャパメタムーブメントが収束し、もはやクールでなくなったメタルに見切りをつけたのも理解できるのだ。
ムーブメントの勃発は多くのバンドが登場した82、83年頃で、ピークはラウドネスが海外進出した84、85年頃であろう。しかし、85年は BOØWY のブレイクにより、多くのジャパメタファンがそちらに流れていった時期でもあった。44MAGNUM の本格始動は82年頃でピークは84、85年だから、ムーブメントの栄枯盛衰と重なってくる。
そんなジャパメタにとって曰くつきの BOØWY と 44MAGNUM には接点がある。85年の4人各自のソロを納めた企画盤『フォー・フィギュアーズ』に布袋寅泰がゲスト参加し、87年には BOØWY のライヴイベントにポール、ジミーがゲスト参加している。脱メタル後の作品では BOØWY っぽいニュアンスも感じられるし、ジャパメタに捉われず常に時代をリードした彼ららしく興味深い。
44MAGNUM がメタルのみならず、後の日本のロックシーンに与えた影響は計り知れない。中でも直接的なものはヴィジュアル系ロックだ。
当時の X が80年代後半に登場した際、よりド派手で過激になった 44MAGNUM みたいだ! と思った人は僕だけではなかったはず。44MAGNUM の当時の関係者から、のちのヴィジュアル系に繋がる人脈が多数輩出されている事実も含め、イメージや音楽性など現在に繋がる始祖のひとつといえるだろう。
彼らは2002年に限定復活し、2008年には本格的に活動を再開している。ここ数作では古さを全く感じさせない今風のヘヴィなサウンドも披露し、時代の流れを察知する感性はいささかも衰えていない。
ポールは2006年に若年性のパーキンソン病であることを公表した。この難病と闘いながら彼は今もステージに立ち続ける。その強い意志と様々な使命感は観るもの、聴くものの心に強く訴えかける。
あの80年代のジャパメタムーブメントを最前線で牽引してくれた彼だからこそ、その活動や言葉の一つひとつが重みを持ち、難病と闘う人達や私達に大きな勇気を与えてくれるのだ。
2018.06.02
YouTube / I LOVE METAL
YouTube / DangerCrueRecords
Information