11月1日

ビートルズと音頭の融合!大瀧詠一が金沢明子でカバーした「イエロー・サブマリン」

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ビートルズは日本語カバーが様にならない?


1960年代の洋楽ヒット曲には日本語のカバーヴァージョンが出るケースが多かった。とくに60年代初期のアイドルポップス時代には、日本人歌手によるカバーがオリジナルと並んでヒットしたり、中にはカバーの方がオリジナルよりも知られていたりしていた。60年代中期以降のブリティッシュロックのヒット曲にもGSグループによって日本語カバーされるものがけっこうあった。

しかし、当時からどうしても日本語カバーが様にならないと言われてきたアーティストがあった。それがビートルズだ。

実はビートルズを日本語で歌った例がなかったわけではない。ビートルズコピーバンドとしてデビューした東京ビートルズの「抱きしめたい」(1964年)などは、アイドルポップス日本語訳の第一人者だった漣健児の日本語詞で歌われていた。けれど、このビートルズ日本語ヴァージョンは、後の好事家には面白がられたものの評判にはならなかった。

その後も、多くのビートルズナンバーが日本のアーティストにカバーされてきたが、どうやってもビートルズの “日本語カバーは様にならない” というのが定評となっていった。しかし、僕がその唯一の例外だと思うのが、1982年11月に発表された金沢明子の「イエロー・サブマリン音頭」だ。改めて、ビートルズ日本語カバーの傑作として「イエロー・サブマリン音頭」を振り返ってみたい。

音頭と融合したビートルズの代表作「イエロー・サブマリン」


「イエロー・サブマリン」は、1966年に「エリナー・リグビー」との両A面シングルとして発売され世界的に大ヒットした曲。ゆったりしたテンポの素朴な曲調、珍しくヴォーカルをとるドラマー、リンゴ・スターののどかな雰囲気もあいまって親しみやすいこの曲は、ポール・マッカートニーが中心となって子供のための曲としてつくられたものだ。その後、同年のアルバム『リボルバー』に収録され、さらにビートルズが1968年に制作したアニメ映画『イエロー・サブマリン』のタイトルとなるなど、ビートルズにとっても代表曲のひとつだ。

「イエロー・サブマリン音頭」の企画は、ビートルズファンだったひとりのディレクターの “ビートルズの楽曲を日本のリズムでアレンジしよう” というアイディアから生まれたと言う。彼はしばらくそのアイディアを抱えたままにしていたが、大瀧詠一との出会いによってプランは具体化に向けて動き出す。

大瀧詠一は1981年にアルバム『A LONG VACATION』でブレイクしたが、それ以前から自らのレーベル “NIAGARA” で、圧倒的な音楽的蓄積を駆使して高い趣味性をもったサウンドをつくり出していた。その中には、「ナイアガラ音頭」(1976年)など日本の伝統的な大衆音楽の様式のひとつである音頭とロックを融合させた作品もあった。

こうしてディレクターと大瀧詠一によって「イエロー・サブマリン」を音頭にする企画が進んでいった。



洋楽の邦楽化に込められた大瀧詠一のポリシー


ビートルズの曲を音頭にする―― と聴くと、おふざけコミックソングをイメージする人が多いのではないかという気がする。けれど、これはけっして単なる思いつきで生まれた企画ではない。そこには、洋楽と日本の音楽との関係を考え続けてきた大瀧詠一のポリシーが込められていた。

洋楽と日本の音楽とに関する大瀧詠一の考察は、相倉久人との対談「分母分子論」(1983年)として発表されているから、機会があれば目を通していただければと思う。実は、この「分子分母論」は僕が構成を担当させていただいた。僕にとっても刺激的で印象に残る取材のひとつだった。「分母分子論」の要旨は、

「新しい日本の流行音楽は、古い日本の音楽が洋楽の影響を受けて洗練されてきたものだと思われがちだ。しかし、実際には明治以降の日本の流行音楽は、直輸入された西洋音楽が日本化していくというベクトルをもっている」

―― という指摘だ。例えば、よく “演歌は日本人の心のふるさと” などと言われるが、流行音楽としての演歌が生まれたのは1960年代後半のこと。洋楽をベースとした流行歌に日本的味付けを濃くした演歌は、実は歴史的には新しい音楽スタイルなのだ。だからこそ、「イエロー・サブマリン」の音頭化は、まさに洋楽を邦楽化する動きの実証実験とも解釈できる試みでもあったのだ。

日本語詞は松本隆。金沢明子の歌で伝えた “本物感”


大瀧詠一は「イエロー・サブマリン音頭」制作にあたって、きわめて用意周到な準備をしている。歌手として金沢明子が抜擢されたのも、本格的民謡歌手でもある彼女が歌うことで、おふざけではない本物感を伝える意図があった。

日本語詞を担当したのは松本隆。余計な言葉遊びはせずに、原詞の意味に忠実な、けれど子どもの歌として成立する簡潔な詞になっている。サビの部分を英語のままにして、最後に一言「潜水艦」と日本語で締めているのもシャレている。

アレンジャーとして萩原哲晶が起用されているのも大きなポイントだ。戦後日本のジャズシーンで活躍し、作・編曲家として「スーダラ節」をはじめクレイジー・キャッツの楽曲の多くを手掛けてきた萩原哲晶は、まさに “音楽で遊ぶ” 達人だった。大瀧詠一には、「イエロー・サブマリン音頭」に萩原哲晶サウンドのエッセンスを入れ込むことで、洋楽の日本化の歴史の精華を次の時代に伝えようという意図もあったのかもしれないと思う。

萩原哲晶は大瀧詠一に「思い切りやってください」と言われてこの曲に取り組んだという。「イエロー・サブマリン音頭」を聴くと、クレイジーキャッツ・サウンドでおなじみのホーンセクションによるズッコケフレーズが使われていたり、“潜水艦” からインスパイアされた「錨を上げて」「軍艦行進曲」などの海にちなんだ行進曲を入れ込んだりと、非常に凝ったサウンドづくりがなされている。

なお、萩原哲晶は1984年1月に死去したため「イエロー・サブマリン音頭」が遺作となっている。

萩原哲晶のアレンジはかなり大胆なもの、という気もするが、実はそれもこの曲にとって必然だったのではないかと思う。ビートルズによるオリジナルの「イエロー・サブマリン」も当時としては大胆なアレンジがほどこされていた。ベースとなっているのはメンバーによるコンボの演奏だが、プロデューサーのジョージ・マーティンがさまざまな擬音や話し声などを入れ込んで、まるでラジオドラマのようなストーリー性や楽しさが感じられるにぎやかな作品に仕上げられている。



杉真理、佐野元春、伊藤銀次もレコーディングに参加


こうした、普通のバンドアンサンブルからはみ出した新鮮な効果を生み出そうとするオリジナルの音作りの姿勢を継承したのだとすれば、「イエロー・サブマリン音頭」の編曲はけっしてムチャをしているのではなく、素直に納得できるものだと思う。

発売当初、やはり一般的には「イエロー・サブマリン音頭」はコミックソングとして受け取られることが多かった。ふざけていると拒否反応を示したビートルズファンもいた。しかし、この圧倒的な存在感をもった曲は時の流れのなかで忘れ去られることはなく、逆に人々に愛される曲になってきているという気もする。

「イエロー・サブマリン音頭」のレコーディングには、杉真理、佐野元春、伊藤銀次といったビートルズに対して強いリスペクトをもったアーティストが参加している。その事実にも示されているけれど、「イエロー・サブマリン音頭」は曲のそこここにたっぷりと楽しさが演出されている。しかし、オリジナルに対する敬意は少しも失われていないと思う。

なによりも僕がこの曲に強く感じるのは、「イエロー・サブマリン音頭」はけっしてオリジナルのパロディではなく、ビートルズが「イエロー・サブマリン」をつくった意味、そして姿勢を自分たちなりに受け継いだらどうなるか、という真摯なチャレンジだということだ。その意味で「イエロー・サブマリン音頭」は、「イエロー・サブマリン」の正当なカバーなのだと思う。

当時、ビートルズの歌詞の変更は認められなくなっていたが、「イエロー・サブマリン音頭」については、実際に曲を聴いてポール・マッカートニーがOKを出したという。おそらくポールには、大瀧詠一をはじめとする制作陣の想いが伝わったのではないか―― ついそんな想像をしてしまう。


※2021年11月1日に掲載された記事をアップデート

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2022.11.01
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