6月21日

阿川泰子 ー 大人の世界を垣間見せてくれた美しきジャズヴォーカリストの艶気

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photo:YASUKO AGAWA Official Site  

読者の皆さんは初めて「貸レコード屋」で借りたレコードを覚えてらっしゃるだろうか。よく「初めて買ったレコード(CD)」の話をすることはあってもなかなか「借りた」ことなど覚えていないものではないかと思う。借りたものは手元に残らないからである。

我々が80年代に多くの音楽に触れることができたのは「貸レコード屋」の登場によるところが大きい。なけなしの小遣いで何千円というLPレコードを何枚も買うことなど、とてもできることではなかったから “ちょっと聴いてみたい” 音楽に触れてみるには最適の存在だったのだ。

当時は「友&愛」「黎紅堂」などというお馴染みのチェーン店を始め、街のあちこちに貸レコードがあり、品揃えを競いあっていたものである。我々は友達との間で「チェーン店は新譜に強い」とか「あそこの店舗は珍しいレコードがある」などといった情報を交わし、店側もまだ確立された管理システムなど無いから、店長の裁量で独自にサービスを展開し集客を図った。エイベックスグループの総帥、松浦勝人氏が貸レコード屋のアルバイトから身を起こしたのは有名な話である。

果たして私が初めて借りたレコードとは、忘れもしない阿川泰子『SUNGROW』であった。きっかけは野球部のチームメイトで音楽好きの仲間が練習中、アップの際にその収録曲「スキンドゥ・レ・レ」の一節を口ずさみながら、小刻みにステップを刻んでいたことである。

「何それ?」と訊ねると、彼は「阿川泰子だよ。知らないの?」などと勝ち誇ったように云う。「え、名前は聞いたことあるけど。お前、そんなの聴いてるの?」と私が訊き返すと「一度聴いてみろよ。泰子さん、イイよ。」… 不覚にもやられたと思ってしまった。それに何だよ “泰子さん” って!「オトナかよ!」と突っ込みたくなると同時に何か先を行かれたような気がして、ちょっと悔しい思いが残った。

その泰子さんこと、阿川泰子は、その当時すでに4枚のアルバムをリリース。4枚目のアルバム『JOURNEY』が大ヒットしたことで、5枚目のアルバム『SUNGROW』の売り出し時にはレコード店にコーナーができるほどだったから、聴かなくても名前ぐらいは知れ渡っていたのである。

ジャズといえば当時は父親のコレクションにあるレコードしか聴くことはなく、しかも女性ヴォーカルといえば、サラ・ヴォーンとか、国内だと笠井紀美子ぐらいしか名前が挙がらなかった。

国内にはメジャーシーンで活躍するジャズヴォーカリストは、まだ少なく、ジャズ自体も多くの場合、流行歌手が時折歌う一ジャンルに過ぎなかったから、女性ヴォーカリストがこれほど注目を集めたことなど、それまでなかったことだった。そんな中、思い立って「ちょっと聴いてみようかな」というのには、貸レコード屋の存在はまさにうってつけであった。阿川泰子『SUNGROW』はそうして私のレコードレンタル第1号となったわけである。

彼女はそのルックスもさることながら “元女優” という経歴も注目を集める理由になっていた。主演クラスの女優ではないが、杉村春子に憧れて文学座に入ったという筋金入りの女優であり、松田優作と同期であったこともよく知られている。

そんな彼女がなぜジャズシンガーに華麗なる転身を遂げ、成功を収めることができたのか。それはポスト歌謡曲の流れがジャズ界にも押し寄せたという事だろうか。時代が本物を求め、彼女はそれに応えた。

果たして表現者として女優時代に培ったものがどれほど作用したかはわからないが、とにかく彼女の歌唱が持つ艶色は、初めてのジャズ… というより、大人の音楽に触れた気にさせてくれた。

それまでどこかで聴いたことがある楽曲でしかなかったジャズのスタンダードが、彼女のヴォーカルを通じて、あくまでその時代の音楽として、分かりやすく受け容れられたような気がした。

音楽シーンの背景としては、にわかに70年代後半から80年代にかけて、ジャズクロスオーバーの世界から、フュージョンと呼ばれるジャンルが確立されつつあった。海外ではジョージ・ベンソンやチャック・マンジョーネ、チック・コリアなどが活躍、国内でもカシオペアやプリズムなどが登場し、ジャズの枠組みにこだわらないスタイルの音楽が、敷居が高いと思い込んでいた音楽を大きく引き寄せてくれたことも大きい。

彼女が切り拓いた “女性ジャズヴォーカリスト” のポジションには、その後も幾人かのフォロワーが登場した。82年には同じ元女優の肩書を持つ真梨邑ケイや秋本奈緒美がジャズシーンにデビュー。81年デビューの麻倉未稀も3枚目のアルバム『SNOWBIRD』あたりまではフュージョン色の濃いアレンジがされていたように思う。

「売れない女優が、ちょっと歌が上手いからってジャズ歌手で再デビュー!?」などと揶揄する向きもあったかも知れない。秋本奈緒美などは番組MCを務める『オールナイトフジ』で “ジャズ歌手のくせに楽譜も読めない” などと、とんねるずの石橋貴明にからかわれたりもしたが、彼女の歌手としての実働はわずか2年ほどで終了した。

真梨邑ケイもカラオケ向けのデュエットソングをリリースするなど迎合路線を余儀なくされ、麻倉未稀に至っては早々に路線変更し、洋楽カバー曲などでブレイクを果たした。ブームに依った便乗商法に過ぎなかったとまでは言えないだろうが、こうした経緯を経て80年代初頭を彩った女性ジャズヴォーカリストのブームは、ほぼ終息へ向かっていった。

しかし改めて考えてみるとジャズの大衆化という意味では、彼女たちの果たした役割は決して小さくなかったように思う。その後もマリーンやケイコ・リー、大阪のおばちゃんシンガー綾戸智恵らが活躍して牙城を守り、引き続き我々の耳を愉しませてくれている。

ブームをけん引した阿川泰子も活動のペースを落とし、CDリリースこそしてはいないが、現役シンガーとして時折ステージに姿を見せている。実力者たちが息長く存在感を示し続けられるのは、ジャズというカテゴリーのなせる業である。80年代の音楽シーンを考えると、技術的なイノベーションもさることながら、ジャンルのボーダーレス化、ソフト供給の仕組みなど、我々リスナーのモチベーションを喚起して育む環境が整いつつあったのを思い起こすことができる。

美しき女性ジャズヴォーカリストのブームは、決して長くは続かなかったが、時代の象徴として記憶に残る出来事であったように思う。

2018.04.03
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  YouTube / gyoutokufuji
 

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