1980年12月9日、日本でもトップニュースで報道されたジョン・レノンの死
1980年12月9日夕刻、当時は今よりもずっと寒かった。僕の育った場所は埼玉県北東部のとある街で、いわゆる関東平野のど真ん中。県境には利根川が流れ、冬になると関東のからっ風とか赤城おろしとか言われる、乾燥した冷たい風がビュービュー吹きまくっていた。
中学生の夜は早く、祖父母が一緒に住んでいたせいもあって夕飯どきは早かった。この季節は日も暮れるのが早いから、だいたい5時過ぎくらいからだったろうか? テレビで九州場所を観戦しながら晩酌していた祖父を思い出す。つまみはいつも湯豆腐だった。よくもまあこんなものを毎日食えるもんだなと子供心に呆れていたが、今となっては何とまあ粋な爺さんだろう。
そして、相撲中継が終わる6時にはフジテレビの『FNNニュースレポート』、そして6時半には TBS にチャンネルチェンジ。日本のウォルター・クロンカイトとも称された古谷綱正がキャスターを務める『JNNニュースコープ』の時間が始まる。これが完全なルーティン。一糸乱れず整然としたこの流れの中で僕は毎日夕食を食べていた。九州場所は閉幕していたが、この日もいつもと変わらない、そんな冬の夕方。僕が接した最初の報は『FNNニュースレポート』だった。キャスターは山川千秋、もちろんトップニュースである。
騒ついたダコタ・ハウス前の映像、かなわぬビートルズの再結成
元ビートルズのメンバーであるジョン・レノンが射殺されました。
「ええっ!うそ!」
家族の反応を明確には覚えていないのだが、母や祖母は、ジョン・レノンがどうこうよりも「あれあれ、アメリカは怖いねえ…」みたいなリアクションだった気がする。当時僕の両親は45歳前後、戦前の生まれだから、ビートルズに熱狂する世代よりもひと回り上だった。ましてや田舎だしね。
僕はちょうどビートルズを聴き始めた年頃でもあったから、フジテレビのニュースに始まり、TBS さらにはルーティン外だった7時の『NHKニュース』まで、目を皿のようにして凝視し続けた。どのニュース番組も、騒ついたダコタ・ハウス前の映像を繰り返し流し続けた。だからか、今でもニューヨークと聞くと、反射的にこの時の中継映像が頭の中を駆け巡る。
ショックを受けたと言うよりも、「ああ、ビートルズの再結成はもうないんだなあ…」って落胆の気持ちのほうが強かった。まだジョン・レノンのソロアルバムをほとんど聴いたことがない受験を控えた中学生だったし、自分の中ではジョンよりもビートルズの存在感のほうがまだまだ大きかった。
割を食ったポール・マッカートニー、死して神格化されたジョン・レノン
だから、僕がジョン・レノンの作品に耳を傾けたのはその死後。なんにせよ多感な十代、彼が残した楽曲に影響を受けるのは当然の流れなのだが、死して美化され神格化された部分も多分にあった。素直に接することが不可能なくらい、バイアスのかかった音楽評論やイメージや空気が蔓延していた。恐らく僕だけじゃない。多くの音楽ファンがジョン・レノンに対し、必要以上の複雑な感情を持って接さなければならなかったはずである。
割を食ったのはポール・マッカートニーだ。これは僕の例だが、その後二十歳過ぎくらいまで、つまり80年代後半くらいまで、ビートルズの曲を「これはジョンの曲、これはポールの曲」と、明確に区別(いや、差別)して聴いていたのである。いいなと思ったポールの作品も、心の横に置いていた自分が恥ずかしい。そんな分け方は全く意味のないことだと気付くまでに何年も費やしたのだから。ごめんね、ポール。
その後、僕がジョン・レノンに対して抱いていた何かなんかモヤモヤとした感情をぶった切るような作品が、同世代のミュージシャンによって発表される。その曲こそ、真心ブラザーズの「拝啓、ジョン・レノン」。ジョンの死から16年後のことである(えっ、今から23年も前!)。
※2016年12月9日に掲載された記事をアップデート
2019.12.09