「ABC」で思い浮かぶのはジャクソン5? フィンガー5?
ABC It’s easy as 1 2 3
All simple as do re mi
ABC, 123, baby, you and me, girl
ABC、1 2 3みたいに簡単で
どれも単純
ドレミ、ABC、1 2 3
そうさベイビー、キミと僕の関係みたいに
(拙訳)
皆さんご存じ、幼き日のマイケル・ジャクソンが歌う、ジャクソン5「ABC」の一節だ。サビは単純だけれど、なかなか奥の深い曲である。この部分だけだとそうでもないが、後半にはこんな歌詞が――
「毎日愛してくれなきゃ、キミのお勉強は終わらないよ」
「先生がA(=優)のとり方を教えてあげよう “キミ” と “僕” と書いて、2つを “合体” するんだ」
なんか岡村靖幸の歌詞みたいで、書いていてちょっと恥ずかしくなってくる。私がヤラしく訳しているだけかもしれないが、マイケルはあの年でなんて歌を歌ってたんだ! 教育に悪いだろ!
ま、わが日本でも、フィンガー5・晃が、ちょっぴりグラマーな女性教師の家を訪ねて「♪できるなら 個人授業 受けてみたいよ アハハハハ〜」なんて願望を歌ってたけども。私も当時、小学校で呑気に歌っていたが、子どもによくこんな歌詞を歌わせたよなあ。もう… 阿久悠センセったら。
松本隆×筒美京平のゴールデンコンビがオマージュする「ABC」
で、1970年に発表されたジャクソン5の「ABC」は後の時代にけっこう影響を与えていて、そのオマージュ曲は世界に山ほどある。今回フィーチャーする少年隊「ABC」もその一つだ。
この曲は1987年11月11日、「ポッキーの日」に発売。作詞:松本隆、作曲:筒美京平のゴールデンコンビだ。どういう経緯で「ABC」というタイトルにしたのかは知らないが、おそらくジャニーズ側の思惑は「少年隊に “大人” の曲の決定版をお願いします」だったのではないか。
少年隊はデビュー前からTVに露出し、『夜のヒットスタジオ』でも単独で歌っていながら、なかなかレコードを出さないグループだった。3年ほど引っ張りに引っ張って、1985年12月12日(ゾロ目好き?)に満を持して「仮面舞踏会」でデビュー。
ジャニー喜多川氏のプロデュースセンスは、今さら言うまでもないが、常人の判断を超えたところがあって、「仮面舞踏会」の舞台は歌詞を読めば一目瞭然、どう考えたって「大人のシークレットパーティー」そのものである。
ジャニー喜多川の秘蔵っ子、少年隊が表現した世界とは?
「仮面舞踏会」を作詞したのは、ちあき哲也氏(故人)だ。矢沢永吉にも氏を提供しているちあき氏。ニッキが熱狂的な矢沢ファンで、彼の希望で発注が行ったと聞く。ちあき氏に生前「この仮面舞踏会の会場は?」という質問を送ったところ、こんな丁寧すぎる返事が返ってきた――
「マンハッタンに建つ高層ビルのペントハウス。会員制の社交場で、仮面は羽根飾りと金ラメ入りのアイマスク。紳士淑女が踊るのはセクシーなタンゴ」
作詞した本人がここまでディテールを語っているのだから「非日常を愉しむ大人のパーティー」という解釈は、私の勝手な妄想ではない。アイドルの領域に、大人のエロスの世界を持ち込んだのは革命的だった。
つくづく凄いなぁと思うのは、デビュー曲でこの世界観を許した(望んだ?)ジャニー氏の懐の広さだ。ジャニー氏は、10代の少女相手ではなく、大人の客も満足させられるアイドルを創ろうとしていたことが窺える。少年隊はその夢を実現させるための “秘蔵っ子” だった。だからこそ、デビューをあえて遅らせ、ロスでレッスンを受けさせたりしたのである。
少年隊は、「仮面舞踏会」のあとも「デカメロン伝説」「ダイヤモンド・アイズ」「バラードのように眠れ」「stripe blue」「君だけに」とヒット曲を連発。ジャニー氏が「自分の最高傑作」と公言するほどの高度なステージを披露し、トップアイドルの座に君臨した。
目指したのは“最高のエンタメ”
ここで特筆すべきは、楽曲を創るスタッフも、彼らの実力に見合った「最高のエンタメ」を目指したことだ。曲のクオリティはアイドル歌謡の枠を大きく超え、3人もそれに応えた。1987年は少年隊の絶頂期と言っていいだろう。ジャニー氏は、3人の集大成ともいえる “決定版” を作り手に要望した。それが通算7枚目のシングル「ABC」である。
恋は最初じゃないのに
めぐり逢うたびこわい
風のパークでポツリと
そうつぶやいたね
冒頭の「恋は最初じゃない」という設定が、すでに大人の世界だ。そう、恋するって「めぐり逢うたびこわい」のだ。さらに「“風” のパークで」と “風街印” を刻む松本隆。自信作には必ず入れる刻印である。そしてこんな “本歌取り” も。
Love ABC ABC
Angel Baby Cupid 恋をしたら
Love 1 2 3 1 2 3
「ABC =Angel Baby Cupid」って、そう来たか! 筒美も負けじと、少年隊のハイレベルなダンスが引き立つゴージャスな曲を書いた。このゴージャスさをさらに “メガ盛り” にしたのが、アレンジャーの船山基紀だ。
少年隊に触発された船山基紀。出来上がった1987版 “ウォール・オブ・サウンド”
船山はこの曲を「自分が編曲に関わった京平先生の曲の中で、いちばん好き」と語っている。凄いのは、何台ものシンセと楽器をスタジオに持ち込み、打ち込みの音に生楽器の音を重ね、どんどん音を厚くしていったことだ。
打ち込みのパーカッション+生ドラム、シンセブラス+生ブラス、シンセベース+生ベース……デジタルとアナログのすさまじい融合。まさに1987年版 “ウォール・オブ・サウンド” だ。
なぜ作り手たちがそこまで頑張ったのかというと、少年隊のレベルがそれだけ高かったからにほかならない。今だったらこんなカネも手間もかかることはしないだろうが、幸いなことに、当時の日本経済はバブルに向かい一直線だった。
作り手の情熱と、時代がぴったりハマったとき、傑作は生まれる。3人がこの曲を歌うとき、サビでマイクを蹴っ飛ばすパフォーマンスは「しょせん、アイドル歌謡でしょ」なんて言ってる連中に、思いっきり蹴りを入れているような迫力があった。
光GENJIとうまく住み分けた少年隊
ところで、この曲が出た1987年は、ジャニーズの歴史を語る上で欠かせないグループがデビューした年でもある。そう、光GENJIだ。
ローラースケートを履いて歌うという、少年隊とはまた違ったベクトルでデビューした光GENJIは、たちまちティーンエージャーたちの爆発的な人気を集め、以後、相対的に少年隊の人気は陰ったようにも見えた。が、実はそうではない。彼らには “舞台” があった。
1986年に青山劇場で少年隊が始めたミュージカル『PLAYZONE』(「プレゾン」と読む)は、2008年まで23年間続き、上演回数957回、138万人以上の観客を集めた。少年隊降板後も『PLAYZONE』は後輩たちが受け継ぎ、青山劇場が閉場した2015年まで続くことになる。
ジャニー氏は、フォーリーブスの頃から生のステージを重視してきた人であり、その思いを最高の形に昇華したのが少年隊だった。今思うと、ジャニー氏にとって少年隊は永遠の「Angel Baby Cupid」だったのかも。
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2022.11.11